1542年、愛知県(三河国)で生まれます。しかし、実家である松平家は弱かったため、わずか数え年6歳で織田家、続いて今川家に「人質」として送られてしまいました。親元から離され、常に監視される寂しくて苦しい毎日です。しかし、このドン底の「人質生活」こそが、のちに天下を取るためのものすごい忍耐力と、周りの空気を読み取る力を育てることになります。「いつか必ず自分の国に帰る!」と心に誓い、家康はひたすら我慢の日々を過ごしました。
1560年、歴史を大きく変える桶狭間の戦いが起こります。家康の主君だった今川義元が、織田信長に奇襲されて倒されてしまったのです。大混乱の中、家康はこのチャンスを見逃しませんでした。「今しかない!」と、ずっと帰れなかった故郷・岡崎城へ大急ぎで戻ります。そして、ついに今川家からの「独立」を宣言し、名前を「家康」に改めました。長く苦しかった人質の鎖を自分の手で断ち切り、戦国大名としての第一歩を力強く踏み出した瞬間です!
独立した家康は、とても賢い選択をします。かつての敵であり、今川義元を倒した織田信長と清洲同盟という軍事同盟を結んだのです。西の守りを信長に任せ、自分は東の敵と戦うという戦略でした。裏切りが当たり前の戦国時代にあって、この同盟は信長が死ぬまで約20年間も固く守り抜かれます。この強い絆があったからこそ、家康は自分の領地を広げることに集中できました。しかし、力が強すぎる信長の命令で、後々に家康は家族に関する悲しい決断も迫られます。
1572年、戦国最強と呼ばれる武田信玄の大軍が家康の領地に攻め込んできます。お城でじっと耐えればよかったのですが、若くて血気盛んだった家康は城を出て戦うことを決意。しかし、三方ヶ原の戦いで武田軍に一瞬でボコボコにされ、命からがら逃げ帰ることになります。逃げる途中で恐怖のあまりウンチを漏らしてしまったという逸話があるほどの大ピンチでした。家康は自分の未熟さを反省し、この時のビクビク怯えた顔の絵を描かせて一生の教訓にしました。
1582年、本能寺の変で同盟相手の織田信長が明智光秀に倒されます。ちょうど少人数で旅行中だった家康は、「次は自分が狙われる!」とパニックになり切腹しようとしました。しかし家臣に止められ、山賊などがうようよしている険しい山道を命がけで逃げる伊賀越えを決行します。服部半蔵ら忍者の助けもあって、泥だらけになりながら奇跡的に自分の領地へ逃げ延びました。この絶体絶命の危機を乗り越えたことで、家康の運命は再び大きく動き出します。
信長が亡くなった後、ものすごい勢いで出世したのが豊臣秀吉です。家康と秀吉は「小牧・長久手の戦い」で激突。戦い自体は家康が勝ちましたが、秀吉は頭を使って家康の味方を次々と自分の仲間にしてしまいました。「これ以上戦うとマズイ」と判断した家康は、悔しさを押し殺して秀吉に降伏し、家臣になることを選びます。ここで意地を張らずに豊臣秀吉の下について「我慢」できたことが、のちに天下を取るための重要なステップになりました。
1590年、秀吉が全国統一を果たすと、家康に「先祖代々の土地を取り上げるから、関東に引っ越しなさい」という命令が下ります。当時の関東はススキだらけの田舎で、これは明らかに家康の力を弱めるための「左遷(嫌がらせ)」でした。家臣たちは激怒しましたが、家康は「わかりました」と静かに江戸(現在の東京)へ向かいます。そして怒りをパワーに変え、お城や町を大工事で作りました。この時の努力が、世界有数の大都市・江戸の土台となったのです。
秀吉が亡くなると、豊臣家の中でケンカが始まります。家康はこの隙をついて自分の味方をどんどん増やしました。そして1600年、石田三成を中心とする西軍と、家康を大将とする東軍が激突する関ヶ原の戦いが起こります。「天下分け目の戦い」と呼ばれたこの大戦は、家康が裏で敵の武将(小早川秀秋)を寝返らせる作戦を大成功させ、わずか半日で東軍の圧勝!長かった我慢の日々が終わり、ついに家康が日本のトップに立つ瞬間がやってきました。
関ヶ原の戦いから3年後の1603年、家康は朝廷から武士のトップである征夷大将軍に任命され、ついに江戸幕府を開きます。しかし家康は、たった2年で将軍の位を息子の秀忠に譲ってしまいました。これは「これからの日本のトップは豊臣家ではなく、代々徳川家が受け継いでいくぞ!」と全国の大名に強くアピールするためでした。自分は「大御所(引退したトップ)」として裏から政治をコントロールし、徳川の世の中を確実なものにしていきます。
家康にとって最後の心配の種は、大坂城に残る豊臣秀吉の息子・秀頼でした。家康は1614年と1615年の二度にわたる大坂の陣で、ついに豊臣家を滅ぼします。ライバルが完全にいなくなった後、武家諸法度などの厳しいルールを作って大名たちをしっかり管理する仕組みを完成させました。1616年に74歳で亡くなりますが、彼が苦労して作り上げたシステムのおかげで、この後約260年も続く、世界でも珍しい戦争のない平和な時代が続いたのです。