1180年、高倉天皇の第四皇子として誕生。幼名は尊成(たかひら)親王。わずか4歳の時、源氏に追われた平家が安徳天皇と「三種の神器」を持って西へ逃亡してしまったため、なんと神器がないまま第82代天皇に即位するという、前代未聞の波乱のスタートを切りました。
成長した彼は、あらゆる分野で超一流の才能を発揮します。和歌や音楽などの芸術だけでなく、相撲、水練(水泳)、狩猟などのスポーツや武芸をこよなく愛しました。さらに自ら焼刃(刀剣の鍛造)を行うなど、歴代天皇の中でも際立ってエネルギッシュで規格外の「万能の天才」でした。
現在、皇室のシンボルと言えば「菊の御紋」ですが、これを定着させたのは実は後鳥羽上皇です。彼が菊の花の意匠を非常に気に入り、自らが愛用する刀の銘や身の回りの品々に菊の紋章を使い始めたことが、天皇家の紋章としてのルーツになったと言われています。
文化面での最大の功績は『新古今和歌集』の編纂です。自らも超一流の歌人であった上皇は、藤原定家(ふじわらの さだいえ)ら天才歌人たちを集め、徹底的にこだわり抜いてこの和歌集を完成させました。美しく幻想的なその歌風は、日本文学の最高到達点の一つとされています。
19歳で天皇の座を譲って上皇(院政を敷く元首)となると、政治の実権を握ります。「朝廷の力を取り戻すためには武力が必要だ!」と考えた上皇は、従来の北面武士に加えて、武術に優れた者たちを集めた「西面武士(さいめんのぶし)」を創設し、朝廷独自の軍事力を強化しました。
当初、上皇は鎌倉幕府と敵対していたわけではありません。和歌を愛する第3代将軍・源実朝とは深い文化的な交流があり、実朝の官位を異例のスピードで昇進させたり、自分の名から一字を与えたりするなど、良好な関係を築いて幕府をコントロールしようと試みました。
1219年、その実朝が鶴岡八幡宮で暗殺されてしまいます!親朝廷派であった実朝を失ったことで、上皇と幕府の関係は急速に冷え込みました。さらに、幕府の実権を握った北条義時が朝廷の領地問題などで強気な態度を取り始めたため、上皇の怒りと不信感は頂点に達します。
1221年、ついに上皇は「朝廷をないがしろにする北条義時を討伐せよ!」という命令書(院宣)を全国の武士に向けて発します(承久の乱)。「天皇(上皇)の命令ならば、武士たちは必ず義時を裏切って味方になるはずだ」という絶対的な自信を持っての決断でした。
しかし、上皇の目論見は完全に外れました。鎌倉では北条政子が「頼朝公の恩を思い出せ!」と名演説を行い、御家人たちが固く団結。わずか数日で19万もの超大軍となって京都へ攻め上ってきました。上皇が集めた朝廷軍は圧倒的な武力の前に次々と打ち破られ、まさかの大敗北を喫してしまいます。
乱の首謀者として、上皇は隠岐島(島根県)へ流罪(島流し)という、日本史上かつてない衝撃的な処罰を受けます。絶海の孤島での生活は19年にも及びましたが、彼は最後まで誇りを失わず、和歌を詠み続けながら60歳でその激動の生涯を閉じました。武士の時代に最後まで抗った絶対君主の悲哀と執念です。