後醍醐天皇 ごだいごてんのう

1288年 - 1339年 鎌倉時代後期 - 南北朝時代
生没年月日: 正応元年11月2日(1288年11月26日) 〜 延元4年/暦応2年8月16日(1339年9月19日)
出身: 京都(山城国) 皇族、第96代天皇
鎌倉幕府を滅亡させ、天皇中心の政治を取り戻すという壮大な野望に生涯を捧げた、日本史上最もエネルギッシュで不屈の精神を持つ第96代天皇です!二度の討幕計画(正中の変元弘の乱)に失敗して隠岐に流されるという絶体絶命のピンチにも決して諦めず、ついに幕府を滅ぼして「建武の新政」という理想の政治をスタートさせました!しかし、武士の不満が爆発し、かつての味方であった足利尊氏と激突。京都を追われて吉野(奈良県)に「南朝」を開き、日本が真っ二つに分かれる南北朝時代を引き起こします。「玉骨はたとえ南山の苔に埋もれるとも…」という執念の遺言を残し、死の直前まで朝敵討伐の剣を握りしめていたという、規格外のバイタリティと強烈なカリスマ性を持った闘う天皇のストーリーです!
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中継ぎの天皇からのスタート

1288年に大覚寺統の皇子(尊治親王)として生まれました。当時の皇室は「大覚寺統」と「持明院統」という二つの家系が交互に天皇になるルール(両統迭立)があり、彼も本来は「次の天皇が育つまでのピンチヒッター(中継ぎ)」として、31歳という遅咲きで即位しました。しかし、彼には「本来の正しい天皇中心の政治を取り戻す!」という強烈な野心と使命感があったのです。
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幕府の干渉への怒りと討幕の決意

当時、天皇の位を誰にするかという皇室の超重要な決定権まで、すべて鎌倉幕府が握っていました。「天皇の国である日本を、関東の武士たちが勝手に牛耳っているなんて許せない!」と激しい怒りを抱いた後醍醐天皇は、自ら政治の実権を取り戻すため、なんと現役の天皇でありながら「鎌倉幕府を武力で倒す」という前代未聞のクーデターを密かに計画し始めます。
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無礼講?正中の変での失敗

1324年、天皇は側近の公家(日野資朝ら)を集め、「無礼講(ぶれいこう)」という宴会を開きました。お酒を飲みながら身分に関係なくドンチャン騒ぎをするフリをして、実は討幕の密談をしていたのです!しかし、この計画は幕府にアッサリとバレてしまい、側近たちは処罰されます(正中の変)。天皇自身は「私は何も知らない!」としらを切り通して難を逃れました。
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元弘の乱と、隠岐への島流し

一度の失敗では全く諦めません!1331年、再び討幕を企てますが、これも側近の裏切りで幕府にバレてしまいます。天皇は京都を脱出して笠置山(京都府)に立てこもって戦いますが、圧倒的な幕府軍に捕まり、ついに「隠岐(おきのしま:島根県)」へと流罪(島流し)にされてしまいました!現役の天皇が島流しになるという、歴史的な大事件(元弘の乱)です。

不屈の闘志!隠岐からの大脱出

絶海の孤島に流され、別の天皇(光厳天皇)が即位させられても、彼の闘志は1ミリも衰えませんでした!「絶対に京都へ帰る!」と強い執念を燃やし、なんと監視の目を盗んで隠岐の島から漁船で(一説にはイカの干物の下に隠れて)大脱出に成功!伯耆国(鳥取県)の船上山に立てこもり、全国の武士たちに「幕府を倒せ!」という熱いメッセージ(綸旨)を送り続けました。
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英雄たちの奮闘と鎌倉幕府滅亡

天皇の熱い呼びかけと、決して諦めない強烈なカリスマ性に心を打たれた武士や悪党たちが、次々と立ち上がります!楠木正成が千早城で幕府の大軍を釘付けにし、足利高氏(尊氏)が京都の六波羅探題を、新田義貞が鎌倉を攻め落とし、ついに約150年続いた鎌倉幕府は滅亡したのです!島流しから奇跡のカムバックを果たし、天皇の執念が実を結んだ瞬間でした。
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理想の政治「建武の新政」スタート

1333年、ついに京都へ凱旋し、元号を「建武」と改めて、自らが理想とする新しい政治「建武の新政(けんむのしんせい)」をスタートさせます。「幕府も摂政も関白もいらない!すべての権力は天皇にある!」と宣言し、古代の醍醐天皇の時代のような天皇の絶対君主制を目指しました。しかし、あまりにも急激で独裁的な改革は、すぐに社会に歪みを生み出します。
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武士の不満爆発と、尊氏の離反

天皇の新しい政治は、公家(貴族)を優遇する一方で、命がけで戦った武士たちへのご褒美(土地)が少なく、さらに手続きも大混乱!武士たちの不満は頂点に達しました。この不満をすくい上げたのが、討幕の最大の功労者であった足利尊氏です。ついに尊氏は天皇に反旗を翻し、新田義貞ら「天皇軍」と、武士のトップに立った「足利軍」による壮絶な内乱が始まってしまいます。
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吉野への脱出!南北朝時代の幕開け

湊川の戦いで楠木正成が討ち死にし、足利軍が京都を制圧。尊氏は新しい天皇(光明天皇)を立てて室町幕府を開きました。幽閉された後醍醐天皇ですが、ここでも絶対に諦めません!三種の神器を持って密かに京都を脱出し、険しい山々に囲まれた吉野(奈良県)へ逃げ込みます。「私こそが本当の天皇だ!」と宣言し、日本に二人の天皇が存在する激動の「南北朝時代」が幕を開けました。
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怨念の遺言「玉骨は南山の苔に…」

吉野の山奥(南朝)で、足利尊氏(北朝)を倒すための執念を燃やし続けましたが、1339年、ついに病に倒れます。死の直前、彼は左手には法華経を、右手には討幕の剣を強く握りしめていました。「玉骨(自分の骨)はたとえ南山の苔に埋もれようとも、魂は常に北の京都の空を望むだろう。必ず朝敵を討ち滅ぼせ!」という凄まじい怨念の遺言を残し、波乱に満ちた52歳の生涯を閉じました。
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