1127年、鳥羽天皇の第四皇子として誕生。皇位を継ぐ可能性は低かったため、政治には見向きもせず、当時のポップスである「今様(いまよう)」に昼夜を問わず熱中しました。あまりの遊び呆けぶりに、父からは「皇位を継ぐ器ではない暗主」と呆れられていたそうです。
1155年、兄の近衛天皇が若くして崩御すると、権力闘争の妥協案としてなんと29歳で突然、第77代天皇に即位することになります!実は彼の子(後の二条天皇)を即位させるまでの「中継ぎ」としての役割でしたが、これが彼の権力者への第一歩となりました。
即位の翌年、父・鳥羽法皇が崩御すると、兄である崇徳上皇との間で激しい権力闘争「保元の乱」が勃発!平清盛や源義朝といった武士たちの武力を巧みに利用して勝利を収め、朝廷内における絶対的な権力を確立しました。
在位わずか3年で息子の二条天皇に譲位し、上皇となって「院政」を開始します。しかし、自らが政権を握り続けたい後白河上皇と、天皇中心の政治を望む二条天皇派の間で、朝廷を二分する激しい対立が長く続くことになりました。
1159年、側近の対立から「平治の乱」が起こり、一時は源義朝らによって幽閉されてしまいます。しかし、平清盛の機転によって見事に脱出!この乱で源氏を壊滅させた清盛を重用し、平家全盛の時代が幕を開けることになります。
平家の権力が強大になりすぎると、今度は清盛を疎ましく思い始めます。平家打倒を企てた「鹿ヶ谷の陰謀」が発覚すると清盛は激怒!ついに1179年、清盛によるクーデターで鳥羽殿に幽閉され、院政を完全に停止させられてしまいました。
1181年に清盛が亡くなると再び権力を取り戻し、源氏の武将たちを利用して平家を京都から追い出します。入京した源義仲を最初は歓迎しましたが、義仲の軍勢が乱暴狼藉を働くと、今度は彼を厄介払いするために源頼朝に義仲討伐を命じました。
頼朝の弟・義経が平家を滅ぼすと、義経を厚くもてなして官位を与え、兄の頼朝と対立させます。このように武将同士を争わせて共倒れを狙う老獪な政治手腕を目の当たりにした頼朝は、彼を「日本一の大天狗だ!」と激しく警戒し、恐れました。
政治の表舞台で血みどろの権力闘争を繰り広げる一方で、「今様」への情熱は生涯消えることがありませんでした。身分を問わず遊女や庶民からも熱心に歌を学び、その集大成として日本歌謡史に残る傑作『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』を編纂しました。
頼朝の追及をのらりくらりとかわし続け、朝廷の権威と領地をしっかりと守り抜きました。1192年、66歳でその激動の生涯を閉じるまで、5代の天皇にわたって日本の最高権力者「治天の君」として君臨し続けた、日本史屈指のタフな政治家です。