後白河法皇 ごしらかわほうおう

1127年 - 1192年 平安時代末期
生没年月日: 大治2年9月11日(1127年10月18日) 〜 建久3年3月13日(1192年4月26日)
出身: 平安京(京都府京都市) 第77代天皇、治天の君
源平合戦という激動の時代において、平清盛源頼朝源義経といった武将たちを巧みに操り、朝廷の権力を守り抜いた平安時代末期の「治天の君」にして第77代天皇です!若い頃は天皇になる見込みがなく、当時の流行歌である「今様(いまよう)」に熱中しすぎて「暗主(バカな君主)」と呼ばれていました。しかし、29歳で運命のいたずらにより天皇に即位すると、直後の保元の乱で勝利して権力を掌握。その後、譲位して院政を敷き、なんと5代の天皇にわたって朝廷のトップとして君臨しました。武士の力が強まる中、時には清盛に幽閉され、時には義経と頼朝を対立させるなど、権力を分散させる老獪な政治手腕を発揮。そのあまりの腹黒さと政治的しぶとさから、源頼朝からは「日本一の大天狗」と恐れられました。熱狂的な今様オタクとして傑作歌集『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』を編纂するなど、文化的な功績も大きい、底知れぬ魅力と凄みを持った怪物法皇のストーリーです!
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今様狂いの「暗主」

1127年、鳥羽天皇の第四皇子として誕生。皇位を継ぐ可能性は低かったため、政治には見向きもせず、当時のポップスである「今様(いまよう)」に昼夜を問わず熱中しました。あまりの遊び呆けぶりに、父からは「皇位を継ぐ器ではない暗主」と呆れられていたそうです。
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棚からぼた餅の天皇即位

1155年、兄の近衛天皇が若くして崩御すると、権力闘争の妥協案としてなんと29歳で突然、第77代天皇に即位することになります!実は彼の子(後の二条天皇)を即位させるまでの「中継ぎ」としての役割でしたが、これが彼の権力者への第一歩となりました。
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保元の乱を制し実権を握る

即位の翌年、父・鳥羽法皇が崩御すると、兄である崇徳上皇との間で激しい権力闘争「保元の乱」が勃発!平清盛や源義朝といった武士たちの武力を巧みに利用して勝利を収め、朝廷内における絶対的な権力を確立しました。
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院政の開始と二条天皇との対立

在位わずか3年で息子の二条天皇に譲位し、上皇となって「院政」を開始します。しかし、自らが政権を握り続けたい後白河上皇と、天皇中心の政治を望む二条天皇派の間で、朝廷を二分する激しい対立が長く続くことになりました。
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平治の乱と平清盛の台頭

1159年、側近の対立から「平治の乱」が起こり、一時は源義朝らによって幽閉されてしまいます。しかし、平清盛の機転によって見事に脱出!この乱で源氏を壊滅させた清盛を重用し、平家全盛の時代が幕を開けることになります。
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鹿ヶ谷の陰謀と法皇幽閉

平家の権力が強大になりすぎると、今度は清盛を疎ましく思い始めます。平家打倒を企てた「鹿ヶ谷の陰謀」が発覚すると清盛は激怒!ついに1179年、清盛によるクーデターで鳥羽殿に幽閉され、院政を完全に停止させられてしまいました。
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平家追討の院宣と源義仲

1181年に清盛が亡くなると再び権力を取り戻し、源氏の武将たちを利用して平家を京都から追い出します。入京した源義仲を最初は歓迎しましたが、義仲の軍勢が乱暴狼藉を働くと、今度は彼を厄介払いするために源頼朝に義仲討伐を命じました。
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「日本一の大天狗」の権謀術数

頼朝の弟・義経が平家を滅ぼすと、義経を厚くもてなして官位を与え、兄の頼朝と対立させます。このように武将同士を争わせて共倒れを狙う老獪な政治手腕を目の当たりにした頼朝は、彼を「日本一の大天狗だ!」と激しく警戒し、恐れました。
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オタクの極み『梁塵秘抄』編纂

政治の表舞台で血みどろの権力闘争を繰り広げる一方で、「今様」への情熱は生涯消えることがありませんでした。身分を問わず遊女や庶民からも熱心に歌を学び、その集大成として日本歌謡史に残る傑作『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』を編纂しました。
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激動の時代を生き抜いた治天の君

頼朝の追及をのらりくらりとかわし続け、朝廷の権威と領地をしっかりと守り抜きました。1192年、66歳でその激動の生涯を閉じるまで、5代の天皇にわたって日本の最高権力者「治天の君」として君臨し続けた、日本史屈指のタフな政治家です。
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