1871年、自由民権運動が最も盛んだった土佐(高知県)で生まれました。上京後、同郷の偉大な思想家である「東洋のルソー」こと中江兆民の書生(弟子)となり、民主主義や自由の精神、そして権力に屈しない反骨精神を徹底的に叩き込まれました。
黒岩涙香が創刊した、当時日本最大の部数を誇る新聞『萬朝報(よろずちょうほう)』に入社します。その圧倒的な文章力と鋭い論理で、社会の不正や政治の腐敗を容赦無く批判し、エースジャーナリストとして一躍その名を世間に轟かせました。
日露戦争の開戦前夜、日本中が「ロシアを打倒せよ!」と戦争熱に沸き返る中、彼は「戦争は一部の資本家が儲かるだけで、苦しむのは常に民衆(平民)である」と真っ向から反論(非戦論)。新聞社が主戦論へ方針転換すると、怒って退社してしまいました。
萬朝報を共に退社した同志の堺利彦らと、1903年に「平民社」を設立し、『平民新聞』を創刊します。平等を象徴する真っ赤なインクで刷られたページもあるこの新聞で、戦争の悲惨さと社会主義の理想を熱烈に訴え、労働者や若者から熱狂的な支持を集めました。
実は、足尾銅山鉱毒事件に命を懸けていた田中正造が、1901年に明治天皇へ直接手渡そうとしたあの有名な「直訴状」の文章を起草したのは、幸徳秋水でした。優れた文筆家として、苦しむ人々の思いを最も美しく力強い言葉に代弁したのです。
1904年、マルクスとエンゲルスが書いた世界的名著『共産党宣言』を、堺利彦と共に日本で初めて翻訳し、『平民新聞』に掲載しました。しかし、これが政府の逆鱗に触れて新聞は即日発禁処分となり、平民社も厳しい弾圧を受けることになります。
言論弾圧によって投獄された後、療養を兼ねてアメリカのサンフランシスコへ渡ります。そこでアメリカの過激な労働運動を目の当たりにし、さらにクロポトキンなどの「無政府主義(アナキズム)」の思想に触れ、彼の考え方は急激に過激化していきました。
帰国後、彼は「選挙で政治家を議会に送っても何も変わらない。労働者がストライキなどの『直接行動』を起こして社会を根底から変えるべきだ!」と主張します。これにより、穏健な議会主義を目指すかつての同志たちと激しく対立するようになりました。
1910年、一部の急進的な社会主義者が爆発物を作っていた事件をきっかけに、政府は「社会主義者を一網打尽にするチャンス」とばかりに事件を大袈裟に捏造します。天皇暗殺計画の首謀者として、計画に全く関与していなかった秋水まで逮捕されてしまいました(大逆事件)。
裁判は非公開の密室で行われ、証拠がないまま秋水を含む12名に死刑判決が下されました。1911年、40歳で処刑されます。この強引な弾圧により、日本の社会主義運動は誰も声を上げられない「冬の時代」へと突入しますが、彼の遺した言葉は後世に語り継がれました。