平 清盛 たいら の きよもり

1118年 - 1181年 平安時代末期
生没年月日: 永久6年1月18日(1118年2月10日) 〜 治承5年閏2月4日(1181年3月20日)
出身: 三重県津市(伊勢国)※諸説あり 武将、公卿、貴族、平氏棟梁
平安時代末期の最強の武将!保元の乱平治の乱でライバルたちを倒し、武士として初めて朝廷の最高トップである太政大臣(だじょうだいじん)に大出世しました。「平氏(平家)にあらずんば人にあらず(平家の人でなければ人間ではない)」と言われるほど、平家一族で日本の権力を独占します。さらに中国(宋)との日宋貿易で莫大なお金を稼ぎ、神戸に港を作ったり、海に浮かぶ美しい厳島神社を建てたりと、スケールの大きな政治で武士の新しい時代を切り開いた超重要人物です!
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エリート御曹司!伊勢平氏の誕生

1118年、平家のリーダーである平忠盛(たいらの ただもり)の長男として生まれます。清盛はとても特別扱いされて育ちました。なぜなら、「実は白河法皇(天皇の次に偉い人)の隠し子なのでは?」というウワサが朝廷の中で囁かれていたからです。真実は謎ですが、若い頃から朝廷の貴族たちにも一目置かれる、ただの武士とは違う圧倒的な存在感とオーラを放っていたエリート御曹司でした。
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武士のパワーを見せつける!保元の乱

1156年、天皇のグループと貴族のグループが真っ二つに分かれて争う保元の乱(ほうげんのらん)が起きます。この時、清盛は後白河天皇の味方になり、ライバルの源氏のリーダー・源義朝(みなもとの よしとも)と一緒に戦って大勝利!これを見た朝廷の貴族たちは「これからの時代は、武士の力がないと政治ができないぞ…」と武士の強さを思い知らされます。清盛が天下のトップへと駆け上がる第一歩でした。
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源氏をぶっ倒す!平治の乱

保元の乱から3年後の1159年、今度は一緒に戦った源義朝と対立してしまいます(平治の乱)。清盛がお参りで京都を留守にしたスキを突かれて大ピンチになりますが、清盛は慌てません。冷静に頭を使って敵を騙し、見事な作戦で源義朝の軍隊を打ち破りました!この戦いで源氏はボロボロに没落(リーダーの義朝は逃亡中に死亡)し、ついに清盛が武士の頂点(ナンバーワン)に立ったのです。
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テストに出る!武士初の太政大臣

ライバルをすべて倒した清盛は、朝廷の中で誰も追いつけないほどの猛スピードで大出世していきます。そして1167年、なんと武士としては日本の歴史上で初めて、朝廷の最高役職である太政大臣(だじょうだいじん)に就任しました!「武士は貴族のボディーガード」というそれまでの常識を完全にぶっ壊し、武士が日本の政治のトップに立つという歴史的な大事件です。ここから平家による無敵の政治がスタートします。
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大儲け!日宋貿易と大輪田泊

太政大臣になった清盛が力を入れたのが、中国(宋)とのビジネスである日宋貿易(にっそうぼうえき)です。大きな船が安全に停まれるように、兵庫県に大輪田泊(おおわだのとまり/現在の神戸港)という立派な港を大工事して作りました。この貿易で中国の進んだ品物や「宋銭(そうせん)」というお金を大量に輸入し、平家に使い切れないほどの莫大な富(利益)をもたらしたのです。政治の力だけでなく、経済の力も握りしめました。
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海に浮かぶ美しさ!厳島神社の造営

清盛は、広島県にある厳島神社(いつくしまじんじゃ)を「平家一族の守り神」としてとても大切に信仰しました。莫大なお金をつぎ込み、海の上に浮かぶような、現在も見られる赤くて壮麗な社殿を造り上げたのです。貴族の文化(寝殿造)を取り入れた優雅なデザインは、武士でありながら貴族のような華やかさを持っていた清盛のスケールの大きさを今に伝えています。世界遺産にもなっている、清盛の最高傑作です。
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天皇のおじいちゃんになる作戦

清盛の権力作戦はまだまだ止まりません。自分の娘である徳子(とくこ)を、なんと高倉天皇のお嫁さん(后)として嫁がせました!やがて徳子は男の子(安徳天皇)を産み、清盛は「天皇のおじいちゃん(外祖父)」という最強のポジションをゲットします。これは、かつて藤原氏がやっていた摂関政治と同じやり方です。武力、お金、そして天皇家の親戚という3つのパワーをコンプリートし、平家の栄華は絶頂を迎えます。
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鹿ヶ谷の陰謀と、法皇を閉じ込める

「平家にあらずんば人にあらず」と威張る平家に対して、昔のトップであった後白河法皇や貴族たちは「清盛め、調子に乗りすぎだ!」と不満を爆発させます。そして京都の鹿ヶ谷(ししがたに)で平家を倒す秘密の会議(鹿ヶ谷の陰謀)を開きますが、清盛にバレて失敗。激怒した清盛は、なんとトップである後白河法皇を鳥羽殿という建物に閉じ込めて(幽閉して)しまいました!天皇の上に立つ、完全な独裁者の誕生です。
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大ブーイング!福原京への引っ越し

法皇を閉じ込めたことで「平家を許すな!」と全国の源氏たちが一斉に反乱を起こします(以仁王の令旨)。事態を重く見た清盛は、自分の貿易の拠点に近い神戸の福原京(ふくはらきょう)へ、無理やり都を引っ越しさせました!しかし、準備不足で生活が不便だったため、貴族たちから「早く京都に帰りたい!」と大ブーイングの嵐。結局、清盛の強引な引っ越し作戦は大失敗し、わずか半年で京都に戻ることになってしまいました。
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清盛の死と、平家のあっけない滅亡

源頼朝や木曾義仲ら源氏の反乱軍がどんどん勢力を拡大する中、1181年、清盛は突然「熱い、熱い!」と原因不明の高熱を出して倒れます。死の直前、清盛は「私の葬式はいらない。ただ、源頼朝の首をはねて私の墓の前に供えろ!」というものすごい執念の遺言を残して息を引き取りました。しかしその願いは叶わず、偉大なリーダーを失った平家は次々と戦いに負け、清盛の死からわずか4年後の1185年、壇ノ浦の戦いで完全に滅亡してしまうのです。
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