1886年、東京の高級官僚の家に生まれました。本名は平塚明(はる)。非常に厳格な父のもとで「女に学問は不要」という古い価値観に囲まれて育ちますが、それに強く反発し、自分自身の生き方を模索する強烈な反骨精神を幼い頃から宿していました。
日本女子大学校に進学しますが、学校の良妻賢母教育に息苦しさを感じて反発します。真理を求めて哲学や宗教の書物を読み漁り、さらには本格的な「禅」の修行に没頭。「私とは何か」を極限まで追求し、後の確固たる自己の基盤を築き上げました。
1908年、夏目漱石の門下生であった作家・森田草平と恋に落ち、雪の那須野・塩原で心中未遂事件(塩原事件)を起こしてしまいます。世間から「堕落した新しい女」として凄まじいバッシングを浴びますが、彼女は全く動じず、逆に世間の偽善的な道徳観を冷ややかに見つめていました。
「女性の隠された才能を引き出したい!」という思いから、1911年に日本初となる女性だけの文芸雑誌『青鞜(せいとう)』を創刊。男尊女卑が当たり前だった時代に、自らのペンネームを雷鳥(らいてう)とし、女性たちが自分自身の言葉で自由に表現できる画期的なプラットフォームを作り上げました。
『青鞜』の創刊号の巻頭に掲げられたのが、あの有名な「元始、女性は太陽であった。真の人間であった。今、女性は月である。他によって生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である」という宣言文です。自らの手で太陽(自立と自由)を取り戻そうという、日本フェミニズム最大の歴史的名言です!
『青鞜』の表紙を描いた5歳年下の画家・奥村博史と恋に落ちます。しかし、女性を夫の所有物のように扱う当時の家父長制的な「結婚(入籍)」を拒否し、自分たちの独立した愛を貫くための「事実婚(共同生活)」という新しいライフスタイルを実践して世間を再び驚かせました。
1918年頃、与謝野晶子や山川菊栄らと「母性保護論争」と呼ばれる大論争を展開します。「女性は国家の保護を受けずに経済的に自立すべき」と主張する晶子に対し、らいてうは「妊娠・出産は社会的な大事業であり、母親は国家から保護される権利がある」と真っ向から反論し、女性の権利について深く掘り下げました。
「言論だけでは社会は変わらない」と悟り、1919年に市川房枝らと共に「新婦人協会」を設立して本格的な政治運動に乗り出します!女性の政治集会への参加すら禁じていた治安警察法第5条の改正を求める激しい請願運動を展開し、1922年についにその法律を一部改正させるという歴史的勝利をもたらしました。
第二次世界大戦後は、女性の解放だけでなく「平和運動」にも全力を注ぎます。冷戦や核兵器の脅威に対し、「日本婦人大会」の結成や「世界連邦運動」への参加など、二度と戦争を起こさせないための国際的な反戦・反核運動の最前線に立ち、世界中の女性たちと連帯しました。
1971年、85歳でこの世を去るまで、常に虐げられた者や女性のためにペンを握り、声を上げ続けました。彼女が蒔いた「太陽を取り戻す」という希望の種は、後のウーマンリブ運動や現代のジェンダー平等社会へと力強く受け継がれ、日本の女性たちを照らし続ける永遠の道標となっています。