1893年、愛知県の農家の三女として生まれました。幼い頃、絶対的な権力を持つ父親が母親に暴力を振るう姿を日常的に見て育ちます。「なぜ女性というだけでこんな理不尽な目に遭わなければならないのか!」という強い怒りが、彼女の生涯にわたる女性解放運動の原動力となりました。
愛知県女子師範学校を卒業して小学校の教師になりますが、男性教師との待遇格差に不満を抱いて辞職。その後、名古屋の新聞社で日本初の女性記者の一人として活躍します。しかし、より広い世界で女性問題に取り組むため、周囲の反対を押し切って単身で大都会・東京へと上京しました。
上京後、女性だけの文芸雑誌『青鞜』を創刊していたカリスマ思想家・平塚らいてうと運命的な出会いを果たします。実践的で行動力のある市川と、理論的でカリスマ性のあるらいてう。二人は互いの才能を認め合い、日本の女性の地位を向上させるために強力なタッグを組むことになります。
1919年、らいてうらと共に「新婦人協会」を設立します。当時の日本では「治安警察法第五条」によって、女性が政治集会に参加したり政党に加入したりすることが法律で厳しく禁じられていました。市川たちは国会に何度も請願書を提出し、粘り強い運動の末、ついに集会の自由を勝ち取りました!
より深く社会運動を学ぶため、1921年から約2年半アメリカへ留学します。そこで、女性参政権を獲得したばかりの熱気あふれるアメリカの女性運動家(サフラジェット)たちの姿を目の当たりにし、「日本の女性にも絶対に参政権(選挙権)が必要だ!」と強烈なインスピレーションを受けました。
帰国後の1924年、「婦選獲得同盟」を結成します。「婦選(婦人参政権)は鍵なり」というスローガンを掲げ、これさえあれば女性の様々な問題は解決に向かうと信じて、全国各地を駆け回って熱い演説を行い、女性の政治的権利の獲得に向けて文字通り命を懸けて奔走しました。
しかし、時代は太平洋戦争へと突入していきます。市川は「国策に協力することで、戦後に女性の地位向上や参政権獲得に繋がる」と考え、政府の戦争遂行組織(大日本言論報国会など)に協力してしまいました。この行動により、戦後にGHQから「公職追放」の処分を受け、表舞台から姿を消すという痛恨の試練を味わいます。
公職追放中であった1945年、敗戦後の民主化政策の一環として、ついに日本の女性に参政権(選挙権・被選挙権)が認められました。市川が生涯をかけて戦い抜いた悲願が達成された瞬間でしたが、彼女自身は追放の身であったため、最初の選挙に立候補することも、手放しで喜ぶこともできませんでした。
1950年に公職追放が解除されると、1953年の参議院議員選挙に立候補して初当選を果たします!彼女は有権者に酒食を振る舞ったりワイロを配ったりする当時の腐敗した選挙を徹底的に批判し、「お金を一切使わないクリーンな理想選挙」を自ら実践し続け、政界の浄化に全力を注ぎました。
1971年に一度は落選するものの、全国の支援者の熱い声に推されて再起。1980年の参議院選挙では、なんと87歳にして全国区でトップ当選を果たすという奇跡を起こします!1981年に亡くなる直前まで国会に立ち続け、日本の民主主義と女性の自由のために闘い抜いた、生涯現役の熱き闘士の物語です。