1535年、薩摩国(鹿児島県)で島津貴久の次男として生まれました。兄の義久(よしひさ)、弟の歳久(としひさ)、家久(いえひさ)とともに「島津四兄弟」と呼ばれ、戦国時代でも稀に見るほど兄弟仲が良かったことで知られています。総大将としてどっしり構える優秀な兄・義久を、現場のトップである猛将・義弘が最前線で支えるという最強のチームワークで、島津家は九州でどんどん勢力を拡大していきました。
1572年、義弘の戦いの天才っぷりが爆発したのが「木崎原(きざきばる)の戦い」です!敵である伊東氏の軍勢が約3000人だったのに対し、義弘の兵はなんとわずか300人!しかし、義弘は地形を完璧に計算した奇襲攻撃や「釣り野伏せ(つりのぶせ:わざと逃げて敵をおびき寄せ、囲んで叩く戦法)」を駆使し、10倍の敵を見事にボロ負けさせました。この戦いで島津家は南九州の覇者となります。
その後も義弘たちの快進撃は止まりません!耳川(みみかわ)の戦いで大友宗麟の軍を破り、沖田畷(おきたなわて)の戦いでは龍造寺隆信を討ち取りました。強大な敵を次々と打ち破るその強さに、九州の大名たちは震え上がります。「島津の釣り野伏せには気をつけろ!」と警戒されても、その圧倒的な武力と戦術でなぎ倒し、島津家は悲願である九州統一の目前まで迫りました。
しかし、九州統一の夢に待ったをかけたのが、天下人の豊臣秀吉でした。秀吉は「島津、戦いをやめなさい」と命令しますが、義弘たちはこれを拒否。すると秀吉はなんと20万人以上の超大軍を率いて九州へ攻め込んできました!義弘は最前線で激しく抵抗し、秀吉軍に一矢報いますが、最後は兄の義久が「これ以上は民や家臣が死ぬだけだ」と降伏を決断。義弘も無念の涙を飲んでこれに従いました。
秀吉の家臣となった後、義弘は朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に参加します。ここで彼の強さが世界レベルであることが証明されました!1598年の「泗川(しせん)の戦い」では、明・朝鮮の連合軍なんと約4万人に対し、義弘の軍はわずか7千人。しかし、またしても絶妙な罠と猛烈な突撃で大軍をパニックに陥れ、見事に撃退してしまいます!敵軍は義弘を「鬼石曼子(グイシーマンズ:鬼島津)」と呼んで恐れ慄きました。
恐ろしい「鬼島津」ですが、実はとってもお茶目なエピソードもあります。時計がない時代、義弘は朝鮮出兵に「7匹の猫」を連れて行きました!なぜかというと、猫の瞳の黒目(瞳孔)は、明るさ(時間帯)によって細くなったり丸くなったりします。義弘は猫の目を見て、正確な時間を把握して作戦の指示を出していたのです。生きて一緒に日本へ帰れた2匹の猫は、今でも鹿児島県の「猫神神社」に祀られています。
1600年、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こります。義弘は約1500人の兵を率いて石田三成の「西軍」に参加しました。しかし、義弘が「夜の間に奇襲を仕掛けましょう!」と素晴らしい作戦を提案しても、三成に「そんな卑怯な戦法はダメだ!」と完全に無視されてしまいます。プライドを傷つけられた義弘は激怒し、「もう勝手にしろ。俺たちは一切戦わない!」と、戦場でピタッと動かなくなってしまいました。
本戦が始まると西軍は総崩れになり、義弘たち1500人は敵(東軍)のド真ん中にポツンと取り残されて絶体絶命のピンチに!普通なら降伏するか切腹するところですが、ここからが鬼島津の真骨頂!「後ろへ逃げるのではなく、一番敵が多い前(家康の本陣の方向)に向かって突撃して突き抜ける!」というとんでもない作戦を実行します。これが歴史に名高い究極の退却戦「島津の退き口」です!
敵の大軍の中を強行突破するため、島津軍は「捨て奸(すてがまり)」という狂気の戦法を使いました。数人がその場に座り込んで敵を足止めし、全滅したら次の数人がまた足止めをする…という、部下の命と引き換えに大将を逃がす壮絶な戦術です。甥の島津豊久や重臣たちが次々と身代わりになって討ち死にする中、義弘は血まみれになりながらも、わずか80人ほどになって奇跡の生還を果たしました!
関ヶ原の後、兄・義久の必死の外交交渉により、なんと徳川家康から「お咎めなし(領地そのまま)」という奇跡の許しを勝ち取ります。晩年の義弘は若者たちの教育に力を注ぎました。彼は身分が低い兵士たちとも一緒に火を囲んでご飯を食べ、誰にでも優しく接したため、部下から狂気的なまでに愛されました。1619年に85歳で大往生を遂げた際、「殿様の後を追いたい!」と13人もの家臣が後追い自殺(殉死)をしたほど、深い人望を持つ大リーダーでした。