島津 斉彬 しまづ なりあきら

1809年 - 1858年 江戸時代後期(幕末)
生没年月日: 文化6年3月14日(1809年4月28日) 〜 安政5年7月16日(1858年8月24日)
出身: 江戸(東京都港区) 武士、大名
幕末の薩摩(鹿児島県)を日本最強の近代テクノロジー国家へと押し上げた、驚異的な先見の明を持つ名君です!曾祖父から西洋の学問(蘭学)を受け継ぎ、43歳で藩主になると「集成館事業(しゅうせいかんじぎょう)」という日本初の西洋式工業地帯を創設しました。大砲やガラス細工(薩摩切子)、ガス灯から写真撮影まで、最先端の技術を次々と導入します。また、身分が低かった西郷隆盛や大久保利通らの才能を見抜いて大抜擢し、養女の篤姫を将軍の妻として江戸城へ送り込むなど、人を見る目も超一流でした。日本の国旗として「日の丸」を提案したのも彼です。志半ばで急死しますが、彼が育てた若者たちがのちに明治維新を成し遂げることになる、巨大なスケールを持ったカリスマ藩主の物語です!
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蘭壁大名・島津重豪の教え

1809年、江戸の薩摩藩邸で生まれました。彼の人生に最も大きな影響を与えたのが、曾祖父の島津重豪(しげひで)です。重豪は「蘭壁(らんぺき:オランダの文化に夢中な人)」と呼ばれるほど西洋の学問が大好きで、幼い斉彬をひざに抱いては、ローマ字や西洋の進んだ科学技術について楽しく教え込みました。この幼少期の英才教育が、彼のグローバルな視野を大きく育てることになります。
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お由羅騒動!藩主就任への苦難

非常に優秀に成長した斉彬ですが、実は藩主(トップ)になるまでには大変な苦労がありました。保守的だった父・斉興(なりおき)との対立や、側室のお由羅(ゆら)が自分の息子(島津久光)を跡継ぎにしようとするお家騒動「お由羅騒動(おゆらそうどう)」が起こり、薩摩藩は真っ二つに割れて激しく対立!幕府の老中・阿部正弘の介入もあり、なんと43歳という遅咲きでようやく藩主の座に就くことができました。
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集成館事業!日本初の工業地帯

藩主になった斉彬は、「迫り来る西洋列強から日本を守るためには、強い軍隊と豊かな産業が必要だ(富国強兵)」と考えます。そして鹿児島に「集成館(しゅうせいかん)」という巨大な工場群を建設しました!ここでは鉄を溶かす反射炉を作り、大砲や洋式帆船、さらにはガラス、陶器、農具まで何でも自分たちで作り出すという、まさに「日本初の西洋式工業地帯」を誕生させたのです。
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日の丸を日本の国旗に提案

当時、日本の海には外国の船が頻繁に現れるようになっていました。斉彬は幕府に対して「外国の船と日本の船をはっきり見分けるために、日本共通のシンボルマークが必要です!」と提案します。そして彼がデザインして推したのが、白地に赤い丸を描いた「日の丸」でした!これが幕府に採用され、現在まで続く日本の国旗の元となったのです。

美しき薩摩切子と近代通信

軍事技術だけでなく、文化や産業の発展にも力を入れました。特に有名なのが「薩摩切子(さつまきりこ)」と呼ばれる美しく色鮮やかなガラス細工です。これは海外へ輸出するための超高級品として作られました。他にも、日本で初めて地雷や水雷、モールス信号機(電信機)、ガス灯の実験を成功させるなど、とにかく最先端のテクノロジーへの投資を惜しみませんでした。
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殿様はカメラマン?日本初の写真

斉彬は非常に好奇心が旺盛で、新しいものが大好きな「ハイテク殿様」でした。日本で最も早く銀板写真(ダゲレオタイプ)の撮影に成功した人物の一人としても知られています。自らが被写体となった写真は現在も残っており、ちょんまげ姿の彼が威厳たっぷりに写っています。この「日本最古の写真」は、現在では国の重要文化財に指定されています。
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西郷隆盛ら優秀な若者の大抜擢

斉彬の最大の功績の一つが「人材育成」です。身分や家柄にとらわれず、実力のある者をどんどん出世させました。その代表が、当時身分の低い下級武士だった西郷隆盛です!西郷の誠実さと熱い心を見抜いた斉彬は、彼を自分の側近として大抜擢し、江戸での重要な政治工作を任せました。西郷は斉彬を「神様のように偉大な人」と心底慕い、絶対の忠誠を誓います。大久保利通もまた、斉彬によって見出された一人です。
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篤姫を将軍の正室として江戸へ

幕府の政治にも深く介入していきます。第13代将軍・徳川家定の正室(妻)として、自分の親戚の娘である「篤姫(あつひめ/天璋院)」を自らの養女にし、なんと将軍家へ嫁がせました!これは、幕府とのパイプを太くし、次の将軍選び(一橋派)で有利に立つための高度な政治戦略でした。篤姫もまた、斉彬の教えを胸に江戸城の大奥で力強く生き抜いていきます。
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四賢侯としての政治活動

斉彬は、福井藩の松平春嶽(まつだいら しゅんがく)、宇和島藩の伊達宗城(だて むねなり)、土佐藩の山内豊信(やまうち とよしげ)らとともに「幕末の四賢侯(しけんこう:4人の賢い殿様)」と呼ばれました。彼らは互いに連絡を取り合い、古くさい幕府の仕組みを変えて、天皇や有力な大名たちが協力して政治を行う「新しい日本の形」を目指して奔走しました。
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突然の急死と受け継がれる遺志

1858年、斉彬は兵を率いて京都へ上り、幕府の政治改革を直接要求するという大胆な計画を立てていました。しかし、その出兵に向けた軍事訓練を見学している最中に、突如として高熱を出して倒れ、そのままわずか50歳で急死してしまいます。病死か毒殺か、今でも様々な説がありますが、死の直前まで日本の未来を憂えていました。彼が蒔いた「日本を強くする」という情熱の種は、西郷や大久保たちによって見事に明治維新へと引き継がれていきました。
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