1825年、下級公家の堀川康親の次男として京都で生まれました。幼い頃は容姿もパッとせず、行動も鈍かったため周囲から「岩吉(いわきち)」と馬鹿にされていました。13歳で同じく下級公家の岩倉家の養子に出されますが、彼の中には誰にも負けない野心が燃え上がっていました。
朝廷内で出世するため、岩倉は持ち前の度胸と政治センスを発揮します。幕府が朝廷の権威を利用しようとした際、孝明天皇の妹である和宮(かずのみや)を第14代将軍・徳川家茂に嫁がせる「公武合体」を強硬に推進し、朝廷の権力を強めることに成功。一躍、天皇の側近へと成り上がりました。
しかし、公武合体(幕府との協力)を進めたことで、「幕府に媚びを売る裏切り者!」と尊王攘夷派の過激な志士たちから激しい憎悪を買ってしまいます。「朝廷の四卿(四人の悪党)」として命を狙われ、天皇からも見放された岩倉は、自ら髪を下ろして出家し、命からがら京都の洛北へと逃亡しました。
逃亡先の岩倉村での生活は悲惨でした。雨漏りのするボロボロのあばら屋に住み、暗殺の恐怖に怯えながら、なんと5年間もの極貧の隠棲(引きこもり)生活を強いられます。しかし彼は決して腐ることなく、「いつか必ず天下の舞台に戻ってやる」と虎視眈々とチャンスをうかがっていました。
時代が倒幕へと傾き始めると、岩倉のあばら屋は倒幕派の秘密基地へと変貌します。大久保利通や中岡慎太郎、坂本龍馬といった各藩の超大物志士たちが夜な夜なこのボロ屋を訪れ、新しい国づくりのための極秘会議を行いました。どん底から這い上がる策士の真骨頂です!
1867年、大政奉還によって幕府が政権を返上した直後、岩倉は薩摩藩・長州藩と結託してクーデターを決行します!「王政復古の大号令」を発し、徳川慶喜の権力を完全に奪い取って、天皇を中心とする新しい政府(明治新政府)を力技で樹立。ついに歴史の表舞台への奇跡の復活を果たしました。
実は王政復古の直前、岩倉は大久保利通らと結託して「幕府を討伐せよ」という天皇の命令書(討幕の密勅)を偽造したという説が極めて有力です。新しい時代を切り開くためなら、手段を選ばない泥臭さと冷徹なマキャベリスト(権謀術数主義者)としての一面が彼にはありました。
明治新政府で「右大臣(事実上のトップ)」となった岩倉は、不平等条約の改正と西洋文明の視察のため、「岩倉使節団」の特命全権大使として欧米へ旅立ちます。最初は武士の魂である「ちょんまげ」姿でアメリカに上陸しましたが、現地でからかわれたため、シカゴであっさりザンギリ頭に切り落とすという柔軟さを見せました。
帰国後、西郷隆盛らが主張する「征韓論(武力で韓国を開国させる)」に猛反対して彼らを政府から追放しました。これに激怒した不満士族たちに夜道で襲撃されますが(喰違の変)、岩倉は雪の降る堀の斜面を転げ落ちて身を隠し、眉間や腰に深い傷を負いながらも執念で生き延びました。
その後も日本初の憲法制定の道筋をつけるなど、死の直前まで明治政府の絶対的な権力者として君臨しました。1883年に咽頭癌で亡くなると、日本初の「国葬」で送られます。昭和に入ってから、その威厳ある姿が日本銀行券の「旧500円札」の肖像画として採用され、誰もが知る顔となりました。