1725年、甲斐国(現在の山梨県)に生まれます。祖先は武田信玄に仕えた名門・山県氏の分家であったとされ、大弐は幼い頃から武士としての誇りと気骨、そして兵学への熱い情熱を胸に秘めて育ちました。
青年期に江戸へ出て医学や儒学を学びます。一度は幕府の役人の専属医(町奉行所の与力医者)として安定した職に就きますが、「こんな窮屈な仕事は自分の性に合わない!」と自ら辞職してしまう型破りな性格でした。
医者を辞めた後、江戸に私塾を開き、儒学や兵学(軍学)を教え始めます。古くさい理論ではなく、彼の講義は非常に実践的かつ情熱的であったため、身分を問わず多くの若者や武士たちが彼を慕って門を叩き、塾は大繁盛しました。
1759年、自らの思想の集大成である『柳子新論(りゅうししんろん)』を執筆します。しかし、これは「武力で支配する幕府のやり方は間違っている!」と真っ向から痛烈に批判する、当時としては超危険な思想書でした。
彼は『柳子新論』の中で、「幕府の政治は私利私欲の『覇道』であり、日本の本来の姿は天皇(朝廷)を中心とした『王道』であるべきだ」と主張しました。これが後の日本の歴史を大きく動かす「尊王論」の先駆となります。
彼の過激な思想と、塾生の数が増えて勢力を持つことを恐れた幕府は、門人の密告(でっち上げの謀反計画)をキッカケに大弾圧に乗り出します。1767年、大弐は突然捕縛されてしまいました(明和事件)。
厳しい取り調べにおいて実際の反乱計画は否定されましたが、彼の書いた『柳子新論』などの危険思想が「幕府への明らかな謀反」とみなされ、無残にも死罪(斬首)という極刑に処されてしまいました。享年43。
同時代に京都で天皇の権威を高めようとして幕府に処罰された思想家・竹内式部(宝暦事件)とも親交があったとされ、両者は江戸時代中期における「尊王論の殉教者」として、日本の歴史に深い爪痕を残しました。
彼の死後、その著作と思想は密かに語り継がれました。約100年後の幕末、長州藩の吉田松陰らが大弐の思想に強烈な感銘を受け、彼を熱狂的に崇拝!明治維新へと向かう志士たちの強靭な精神的支柱となったのです。
時代を先取りしすぎて悲劇の死を遂げた彼ですが、明治時代になると倒幕の功労者として名誉が完全に回復されます。故郷の山梨県甲斐市には彼を祭神とする「山縣神社」が創建され、今も学問や思想の神様として静かに崇められています。