1761年、江戸の深川で質屋の息子として生まれます。絵の才能に恵まれていた彼は、北尾重政に入門して浮世絵師「北尾政演(きたおまさのぶ)」としてデビュー。吉原の遊女を描いた美しく艶やかな美人画などで、一躍人気絵師の仲間入りを果たしました。
浮世絵だけでなく文章の才能もあった彼は「山東京伝(さんとうきょうでん)」というペンネームで戯作(小説)を書き始めます。江戸最大の出版プロデューサーである蔦屋重三郎に見出され、二人は次々と画期的なベストセラーを世に送り出していきます。
1785年、絵と文章を組み合わせた大人向けのコミック「黄表紙」のジャンルで『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』を発表。モテたいあまりに自作自演で浮名を流そうとする男の滑稽な姿を描き、爆発的な大ヒットを記録しました!
さらに、吉原などの遊郭での遊び方や遊女とのリアルな会話を描いた「洒落本(しゃれぼん)」というジャンルでも才能が爆発。彼自身が遊郭に通い詰めて得たリアリティと洗練された文章で、江戸の若者たちのバイブルとなりました。
飛ぶ鳥を落とす勢いでしたが、老中・松平定信による「寛政の改革」が始まると状況は一変します。質素倹約と風紀の引き締めを狙う政府にとって、遊興を美化する京伝の洒落本は「目に余る悪書」として厳しくマークされることになりました。
1791年、ついに幕府から摘発され、京伝には両手を鎖で縛られたまま50日間生活しなければならない「手鎖(てじょう)50日」という重い刑罰が下されました。出版元の蔦屋重三郎も全財産の半分を没収され、江戸の出版界は凍り付きました。
刑を終えた後、以前のような自由な作品が書けなくなった彼は、なんと銀座に「京伝店」というお店をオープンします。紙製の煙草入れなどを売るこの店は、彼の圧倒的な知名度とデザインセンスのおかげで連日客が殺到し、大繁盛となりました!
彼は二度結婚していますが、前妻・後妻ともに吉原の元遊女(花魁)でした。世間からの偏見をよそに、京伝は妻を非常に大切にし、深い愛情を注ぎました。妻を亡くした際には悲痛な思いを込めた追悼の句を残しています。
黄表紙や洒落本が規制される中、歴史上の物語や怪異をテーマにした長編小説「読本(よみほん)」という新しいジャンルを開拓します。『忠臣水滸伝』などの名作を発表し、弾圧後も小説家としてのトップランナーの地位を維持し続けました。
弟子入りを志願してきた若き日の曲亭馬琴(のちの『南総里見八犬伝』の作者)の才能を評価し、自宅に住み込ませて指導しました。1816年に56歳で亡くなりますが、彼のエンターテインメントの精神は馬琴ら次世代の戯作者へと見事に受け継がれました。