1619年、京都の鍼医者の家に生まれました。幼い頃から頭は良かったのですが、大変なやんちゃ坊主(不良小僧)だったため、親の手におえず比叡山延暦寺に預けられ、僧侶としての厳しい修行生活をスタートさせることになります。
僧侶として土佐国(高知県)の吸江寺に派遣された際、南学(土佐の朱子学)の祖である谷時中(たに じちゅう)と出会います。仏教の教えに限界を感じていた闇斎は、儒教(朱子学)の合理的で道徳的な教えに雷に打たれたような衝撃を受け、なんと仏教を捨てて俗人に戻る(還俗)決意を固めました!
京都へ戻った彼は、朱子学(南宋の朱熹が体系化した儒学)を徹底的に猛勉強します。「朱子の教えは絶対であり、一文字たりとも疑ってはならない!」という超・原理主義的な信仰を持ち、彼の学派は「崎門学派(きもんがくは)」と呼ばれ、多くの優秀な弟子が集まりました。
その卓越した学識と一本気な性格は、会津藩主であり江戸幕府を裏で支える名君・保科正之(徳川家光の異母弟)の耳に届きます。正之から絶大な信頼を得て政治の最強ブレーンに大抜擢され、藩の法律作りや神社の復興など、多大な影響を与えました。
朱子学を極めた闇斎は、次に日本古来の「神道」に目を向けます。神道の神秘的な教えと、朱子学の道徳的な教えを完全に融合させ、「神と人は一体になれる」と説く独自の思想「垂加神道(すいかしんとう)」を打ち立て、神道家としても頂点を極めました。
彼の性格は「激ウマのラーメン屋の頑固オヤジ」を限界まで極めたような激しさでした!学問に対する一切の妥協を許さず、少しでも教えに背く弟子がいれば容赦なく破門(クビ)にするという、超絶スパルタで恐ろしい師匠として恐れられました。
ある日、弟子たちに「我々が尊敬する孔子と孟子が、大将として日本に攻めてきたらどうする?」と究極の質問を投げかけます。黙り込む弟子たちに対し、「孔孟を斬り殺して日本を守ることこそが、孔孟の本当の教えなのだ!」と言い放ち、日本への絶対的な忠誠心(大義名分)を示しました。
晩年、闇斎が神道へ異常なほど傾倒していくことに、朱子学を純粋に学びたい弟子たちが反発します。結局、「神道に従えない者は出て行け!」と、佐藤直方や浅見絅斎といった愛弟子たち(崎門三傑)と修復不可能な大決裂(絶縁)をしてしまうという不器用な生き様でした。
彼の思想の根本には、「君臣の義(主君に対する絶対的な忠誠)」があり、日本のトップである天皇(朝廷)を絶対的に尊ぶべきだという強烈な「尊王論」が貫かれていました。幕府全盛の時代にあって、これは非常に過激で熱い思想でした。
1682年に64歳でこの世を去りますが、彼が蒔いた「天皇を敬い、国を愛する」という思想の種は決して消えませんでした。約200年の時を経て、水戸学や長州藩の吉田松陰ら幕末の志士たちの魂に猛烈な火をつけ、日本を近代国家へと押し上げる明治維新の精神的な原動力となったのです。