660年頃の生まれとされていますが、若い頃の記録はほとんど残っていません。一説には、朝鮮半島の百済(くだら)から日本へ渡ってきた渡来人(帰化人)の家系ではないかと言われています。もしそうであれば、日本の古い慣習にとらわれない彼の独特で自由な思想や、中国の学問に対する深い理解も納得がいくという、ミステリアスなルーツを持っています。
長く目立たない下級役人でしたが、701年、42歳の時に突然「遣唐使(けんとうし)」のメンバー(少録という書記官)に大抜擢されます!当時としてはかなりの高齢での危険な航海でしたが、彼にズバ抜けた学問の才能と中国語(漢文)の教養があったからこそ選ばれました。翌年、粟田真人(あわたの まひと)らと共に無事に唐(中国)へと渡ります。
唐の都・長安で過ごした約3年間は、憶良の人生を劇的に変えました。世界最大の国際都市で、最先端の文学、思想、そして「家族の絆や社会の道徳」を重んじる儒教や仏教の教えをスポンジのように吸収したのです。この留学経験によって、日本の他の貴族たちとは全く違う、スケールの大きな「人間愛」や「社会への責任感」という独自の価値観を育みました。
日本に帰国した憶良は、唐で身につけた圧倒的な知識を武器に出世街道を進みます。伯耆国(鳥取県)の国司(知事)などを務めた後、ついに皇太子である首皇子(おびとのみこ/のちの聖武天皇)の教育係(東宮侍講)に任命されました!次期天皇に学問を教えるという、学者としてこれ以上ない最高の名誉あるポジションに上り詰めたのです。
60代後半になった726年頃、筑前守(福岡県の長官)として大宰府へ赴任します。そこで出会ったのが、大宰府のトップ(大宰帥)として赴任してきた大貴族にして大歌人の大伴旅人(おおともの たびと)でした!身分は旅人のほうが上でしたが、二人は文学を通じて意気投合。彼らを中心に、都から離れた九州の地で「筑紫歌壇(つくしかだん)」という素晴らしい和歌のサークルが花開きました。
憶良の最高傑作にして、歴史のテストにも必ず出る和歌が『貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)』です。雨漏りするボロボロの家で、寒さに震えながらわずかな塩と酒粕をなめる貧しい農民。そこに税金を厳しく取り立てる役人がムチを持ってやってくる…。貴族が絶対に見ようとしなかった「社会の底辺の地獄」を、まるでルポルタージュのように生々しく描き出した、衝撃的な作品です。
「銀(しろかね)も 金(くがね)も 玉も 何せむに 勝れる宝 子にしかめやも」。これも有名な憶良の歌です。「銀や金や宝石が一体なんだというのだ。どんな素晴らしい宝物だって、自分の子供という最高の宝物には絶対に敵わない!」という、ストレートすぎる親バカっぷり!子供への無条件の愛を詠んだ、時代を超えて現代の親たちも共感する温かい名歌です。
親友である大伴旅人が最愛の妻を亡くして悲しみに暮れていた時、憶良は彼を慰めるために心を込めた歌を贈っています。また、自分の子供が重い病気になった時には「神様、どうか私を身代わりにしてください!」と必死に祈る歌も残しました。建前や見栄を捨てて、人間の弱さや悲しみに真っ直ぐに向き合い、寄り添うことができるのが憶良の最大の魅力です。
晩年、憶良は重い病気(神経痛やリウマチのようなものと言われます)に苦しみます。その痛みと老いの恐怖を『沈痾自哀文(ちんあじあいぶん)』という文章に克明に記しました。「手足は麻痺して動かず、痛みは火に焼かれるようだ。生きたいのに死に近づいていく…」という、目を背けたくなるような老病の現実をも、彼は文学として書き残したのです。
733年頃、74歳という当時としては長寿でこの世を去りました。彼が残した約80首の和歌は『万葉集』に収められ、現在まで語り継がれています。花鳥風月を愛でるだけでなく、貧困、家族への愛、病や老いといった「生身の人間」のリアルを描き切った彼は、日本の文学史において唯一無二の輝きを放つ「社会派・人間派」の偉大な歌人として永遠に評価されています。