1858年、相模国(神奈川県)に生まれました。青年期に上京して福沢諭吉の慶應義塾で学び、その優秀さからすぐに頭角を現します。その後、ジャーナリストとして新聞の論説委員を務め、鋭い筆鋒で自由民権運動を言論の面から力強くリードしていきました。
1881年、政府を追放された大隈重信に合流し、若くして「立憲改進党」の結成に加わります。イギリス流の議会政治(政党内閣制)の実現を目指して全国を飛び回り、国民に政治の重要性を熱く訴えかけました。
1890年、日本で初めて行われた第1回衆議院議員総選挙に出馬し、見事当選を果たします!ここからなんと、1953年に政界を引退するまで連続25回当選、在職期間63年という、日本の憲政史上(そして世界でも)類を見ない驚異の伝説がスタートしたのです。
1898年、日本初の政党内閣である第1次大隈内閣(隈板内閣)で、文部大臣に大抜擢されます。しかし、「もし日本が共和制になったら…」という例え話を用いた演説が「天皇を否定している!」と激しい非難を浴び、わずか数ヶ月で辞任に追い込まれてしまいました。
1903年から約9年間にわたり東京市長を務め、水道などのインフラ整備に尽力しました。特に有名なのが、1912年に日米友好の証としてアメリカの首都ワシントンD.C.へ3000本の桜の苗木を贈ったことです。この桜は現在でもポトマック河畔で美しく咲き誇っています。
1912年、藩閥(長州閥)の桂太郎が天皇の権威を利用して首相になると、民衆と共に「閥族打破・憲政擁護」を掲げて立ち上がります!(第一次護憲運動)。盟友・犬養毅(木堂)と共に、議会で桂首相を激しく追及する名演説を打ち、見事に内閣を総辞職へと追い込みました。
この護憲運動での彼の演説は歴史的です。「彼らは常に天皇の玉座を盾にして自分たちを守り、天皇からの命令を弾丸のように放って政敵を倒そうとしている!」と、権力者の卑怯なやり方を劇的な言葉で痛烈に批判し、議場は割れんばかりの大歓声に包まれました。
一部のお金持ち(高額納税者)しか選挙権を持っていなかった時代に、「すべての成人男性に選挙権を与えるべきだ!」と普通選挙(普選)運動の先頭に立ちました。彼の長年の粘り強い活動が実を結び、ついに1925年、普通選挙法が成立し、民主主義が大きく前進しました。
昭和に入り、軍部が台頭して戦争への足音が近づく中、彼は決して迎合しませんでした。命の危険を顧みずに軍事予算の削減や平和外交を訴え続け、第二次世界大戦中には不敬罪で逮捕される(後に無罪)という弾圧を受けながらも、信念を曲げずに平和を叫び続けました。
戦後も90歳を超えてなお現役の議員として活躍し、恒久平和を目指す「世界連邦建設同盟」の初代会長に就任しました。1953年に落選して政界を引退し、翌1954年に95歳で大往生。衆議院名誉議員の称号を贈られ、日本の民主主義を育てた「憲政の神様」として永遠に歴史に名を刻みました。