1763年、信濃国(長野県)の農家に長男として生まれますが、3歳で実の母を亡くします。その後、父が再婚した継母とは全く反りが合わず、さらに異母弟が生まれると激しいイジメと虐待を受けるという、辛い幼少期を過ごしました。
家庭に居場所がなくなった彼は、わずか15歳で故郷を追い出されるように江戸へ丁稚奉公に出されます。しかし、江戸での生活も決して楽ではなく、様々な職業を転々としながら厳しい下積み時代を生き抜きました。
25歳頃から本格的に俳句(俳諧)を学び始めます。葛飾派というグループの門を叩き、ここで頭角を現した彼は「一茶」という俳号を名乗るようになり、ようやく自分の才能を活かせる生きる道を見出しました。
30代になると、江戸を離れて関西、四国、九州など西日本各地を巡る放浪の旅(行脚)に出ます。各地の俳人たちと交流しながら腕を磨き、型にはまらない独自の「一茶調」と呼ばれる俳句スタイルを確立していきました。
39歳の時に父が重病となり故郷へ戻ります。父の死後、「財産を半分ずつ分けろ」という遺言を残したにも関わらず、継母と異母弟が猛反発!なんとここから12年間にも及ぶドロドロの遺産争いを繰り広げることになります。
彼の俳句の最大の特徴は、弱い生き物への温かい眼差しです。「やせ蛙 負けるな一茶 これにあり」や「雀の子 そこのけそこのけ 御馬が通る」など、親しみやすくユーモアにあふれた名句を次々と生み出しました。
長い遺産争いがついに和解し、ようやく故郷に定住できることになりました。なんと52歳にして24歳も年下の妻(きく)を迎え、初めての温かい家庭を築くという「遅すぎる春」を謳歌します。
しかし幸せは長く続きません。授かった子供たちは次々と幼くして亡くなり、愛妻のきくまでもが病死。「露の世は 露の世ながら さりながら」という句には、理不尽な不幸に対する張り裂けるような悲しみが込められています。
愛娘の死や自らの半生を赤裸々に綴った俳文集『おらが春』を執筆します。日常の喜びと、それを一瞬で奪い去る死の悲しみをありのままに描いたこの作品は、日本文学史に残る最高傑作となりました。
晩年に3度目の結婚をしますが、65歳の時に大火事に遭い、家財道具をすべて失ってしまいます。焼け残った窓のない暗い土蔵(蔵)の中で生活を続け、そのまま中風(脳卒中)の発作を起こして波乱に満ちた生涯を閉じました。