小林 一茶 こばやし いっさ

1763年 - 1828年 江戸時代後期
生没年月日: 宝暦13年5月5日(1763年6月15日) 〜 文政10年11月19日(1828年1月5日)
出身: 信濃国(長野県上水内郡信濃町) 俳諧師
松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ江戸時代を代表する三大俳諧師の一人です!信濃国(長野県)の農家に生まれますが、幼くして実母を亡くし、継母との不和からわずか15歳で江戸へ奉公に出されます。苦労を重ねて俳句の道を志し、全国を行脚しながら独自の人間味あふれる「一茶調」と呼ばれるスタイルを確立。「やせ蛙 負けるな一茶 これにあり」や「雀の子 そこのけそこのけ 御馬が通る」など、小さな生き物や弱い者に対する限りない優しさと共感が込められた句は、現代でも多くの人々に愛されています。一方で私生活は苦難の連続であり、父親の死後は継母や異母弟と12年にも及ぶ泥沼の遺産争いを繰り広げました。52歳でようやく故郷に帰り結婚しますが、授かった子供たちは次々と幼くして亡くなり、愛妻にも先立たれるという絶望的な悲劇に見舞われます。その悲しみを綴った代表作『おらが春』は涙なしには読めません。晩年には火事で家まで失い、焼け残った土蔵の中で生涯を閉じた、苦労と悲哀を詠み続けた不屈の庶民派俳人のストーリーです!
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悲惨な幼少期と継母からのイジメ

1763年、信濃国(長野県)の農家に長男として生まれますが、3歳で実の母を亡くします。その後、父が再婚した継母とは全く反りが合わず、さらに異母弟が生まれると激しいイジメと虐待を受けるという、辛い幼少期を過ごしました。
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15歳で涙の江戸奉公へ

家庭に居場所がなくなった彼は、わずか15歳で故郷を追い出されるように江戸へ丁稚奉公に出されます。しかし、江戸での生活も決して楽ではなく、様々な職業を転々としながら厳しい下積み時代を生き抜きました。
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俳諧の道へ!葛飾派での修行

25歳頃から本格的に俳句(俳諧)を学び始めます。葛飾派というグループの門を叩き、ここで頭角を現した彼は「一茶」という俳号を名乗るようになり、ようやく自分の才能を活かせる生きる道を見出しました。
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西日本を行脚する俳句の旅

30代になると、江戸を離れて関西、四国、九州など西日本各地を巡る放浪の旅(行脚)に出ます。各地の俳人たちと交流しながら腕を磨き、型にはまらない独自の「一茶調」と呼ばれる俳句スタイルを確立していきました。
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泥沼!12年に及ぶ遺産争い

39歳の時に父が重病となり故郷へ戻ります。父の死後、「財産を半分ずつ分けろ」という遺言を残したにも関わらず、継母と異母弟が猛反発!なんとここから12年間にも及ぶドロドロの遺産争いを繰り広げることになります。
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弱き者への愛「やせ蛙」

彼の俳句の最大の特徴は、弱い生き物への温かい眼差しです。「やせ蛙 負けるな一茶 これにあり」や「雀の子 そこのけそこのけ 御馬が通る」など、親しみやすくユーモアにあふれた名句を次々と生み出しました。
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52歳の遅すぎる春(結婚)

長い遺産争いがついに和解し、ようやく故郷に定住できることになりました。なんと52歳にして24歳も年下の妻(きく)を迎え、初めての温かい家庭を築くという「遅すぎる春」を謳歌します。
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我が子との死別と「露の世」

しかし幸せは長く続きません。授かった子供たちは次々と幼くして亡くなり、愛妻のきくまでもが病死。「露の世は 露の世ながら さりながら」という句には、理不尽な不幸に対する張り裂けるような悲しみが込められています。
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悲しみの集大成『おらが春』

愛娘の死や自らの半生を赤裸々に綴った俳文集『おらが春』を執筆します。日常の喜びと、それを一瞬で奪い去る死の悲しみをありのままに描いたこの作品は、日本文学史に残る最高傑作となりました。
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焼け残った土蔵での最期

晩年に3度目の結婚をしますが、65歳の時に大火事に遭い、家財道具をすべて失ってしまいます。焼け残った窓のない暗い土蔵(蔵)の中で生活を続け、そのまま中風(脳卒中)の発作を起こして波乱に満ちた生涯を閉じました。
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