1621年頃、肥後国(熊本県)の天草に生まれました。本名は益田四郎時貞といい、キリスト教の洗礼名(クリスチャンネーム)はジェロニモ、またはフランシスコであったと言われています。幼い頃から非常に聡明で、優れた学問の才能を持つ「神童」として知られていました。また、非常に美しい顔立ちをした美少年であったと伝えられ、その圧倒的なカリスマ性は、苦しい生活を強いられていた周囲の人々を強く惹きつけました。
当時、島原や天草の領主(松倉氏や寺沢氏)は、自分たちのお城を立派にするため、領民に対して信じられないほど重い年貢(税金)を取り立てていました。凶作で食べるものがない農民に対しても容赦せず、税金を払えない者には「蓑踊り(みのにおどり:ワラでできた雨具を着せて火をつける)」などの残酷すぎる拷問を平気で行っていました。人々の苦しみと怒りは、まさに限界の頂点に達していたのです。
この地域はもともとキリスト教(カトリック)の信仰が盛んな場所でした。かつて日本を追い出された宣教師が「25年後、必ずや一人の若き天の使いが現れ、人々を救うだろう」という予言を残していました。過酷な拷問とキリシタン弾圧に苦しむ人々は、ちょうど25年目のタイミングで成長した聡明な四郎を見て、「彼こそが予言された救世主(デウスの御子)だ!」と熱狂的に信じるようになります。
救世主として担ぎ上げられた四郎には、キリスト教の聖人のような数々の「奇跡」の伝説が残されています。「盲目の少女に触れると目がパッチリ見えるようになった」「海の上を歩いて渡った」「飛んでいる小鳥を杖にとまらせた」「手のひらにとまった鳩が卵を産み、その中からキリストの絵が描かれた巻物が出てきた」など、まるで魔法のような数々のエピソードが、民衆の信仰心をさらに強くしていきました。
1637年、ついに領民たちの怒りが爆発します!年貢の取り立てに抵抗した農民が役人を殺害したことをキッカケに、キリシタンや農民、さらには職を失っていた浪人たちまでもが次々と合流し、数万人規模の巨大な反乱軍(一揆軍)に膨れ上がりました。彼らは天草四郎を総大将として神輿(みこし)に担ぎ上げ、十字架の旗を掲げて領主の城へと進軍を開始。「島原・天草の乱」の始まりです。
勢いに乗った一揆軍ですが、周囲から幕府の討伐軍が迫ってくると、有明海に面した断崖絶壁にある「原城(はらじょう)」という使われていない廃城に立てこもる作戦に出ました。男だけでなく、女や子供、お年寄りまでを含めた約3万7千人が城に集結!彼らは信仰という強い絆で結ばれており、「死ねばパライゾ(天国)に行ける」と信じていたため、死を全く恐れないという信じられないほど士気の高い軍隊でした。
「たかが農民の一揆だろう」と甘く見ていた江戸幕府は、板倉重昌(いたくら しげまさ)を討伐軍の司令官として派遣します。しかし、原城の守りは驚くほど固く、信仰に燃える一揆軍の決死の反撃に遭い、幕府軍はまさかの大苦戦!焦った板倉重昌は、お正月の元日に無理やり総攻撃を仕掛けますが、逆に眉間に銃弾を受けて討ち死にしてしまうという、幕府にとって大失態を演じてしまいます。
司令官が戦死するという前代未聞の事態に、3代将軍・徳川家光は激怒。ついに幕府ナンバー2の天才官僚「知恵伊豆」こと松平信綱(まつだいら のぶつな)を派遣し、全国から12万人以上の超大軍を集めました。信綱は無理な攻撃を避け、海にはオランダの軍艦を呼んで大砲を撃たせ、陸と海から原城を完全に包囲して食糧を絶つ「兵糧(ひょうろう)攻め」という、冷酷で確実な作戦に切り替えました。
数ヶ月に及ぶ包囲により、城の中の食糧や弾薬は完全に尽き果てました。1638年2月28日、幕府軍の総攻撃がついに始まります。飢えと寒さでボロボロになっていた一揆軍ですが、誰一人として降伏することなく、最期まで神への祈りを捧げながら戦い抜きました。16歳の天草四郎も陣中で討ち取られ、女子供を含めた約3万7千人は一人残らず皆殺しにされるという、凄惨な最期(殉教)を遂げたのです。
たった一つの城に3万7千人もの民衆が立てこもり、幕府軍に大打撃を与えたこの事件は、江戸幕府に「キリスト教の団結力は恐ろしすぎる!」という強烈な恐怖を植え付けました。この乱をキッカケに、幕府はキリスト教の弾圧をさらに厳しくし、ポルトガル船の来航を全面的に禁止します。天草四郎が起こした命がけの反乱は、結果的に約200年以上続く日本の「鎖国(さこく)」体制を完全に決定づけることになったのです。