626年、第34代舒明天皇と第35代皇極天皇という、両親ともに天皇の血を引く超エリート皇子として誕生しました。若い頃から聡明で強いカリスマ性を持ち合わせていましたが、当時の朝廷は蘇我氏(蘇我蝦夷・入鹿)が天皇をしのぐほどの強大な権力を握っており、彼は国の未来に強い危機感を抱いて成長します。
蘇我氏打倒の協力者を探していた皇子は、法興寺(飛鳥寺)で行われた「蹴鞠(けまり)」の催しに参加します。そこで蹴った靴が脱げて飛んでしまったのを、拾って丁寧に差し出してくれたのが中臣鎌足(なかとみの かまたり)でした。このドラマチックな出会いにより、二人は固い絆で結ばれ、極秘の暗殺計画を練り始めます。
645年、飛鳥板蓋宮での儀式中、皇子は自ら剣を抜き、仲間とともに蘇我入鹿に斬りかかりました(乙巳の変)。母・皇極天皇の目の前でのクーデターでしたが、皇子は「入鹿は皇族を滅ぼし、国を乗っ取ろうとしています!」と正当性を主張。これによって蘇我氏の本流は滅亡し、政治の実権を天皇の手に取り戻すことに成功します。
クーデター後、皇子はすぐには天皇にならず、「皇太子」として政治のトップに立ちます。そして、日本の歴史上初めて「大化」という元号を定め、豪族が支配していた土地や民衆を国家のものとする「公地公民」の原則などを打ち出しました。唐(中国)の進んだ法律を取り入れ、天皇を中心とした新しい国づくりをスタートさせます。
政治改革を進める中、660年に同盟国・百済が唐と新羅の連合軍に滅ぼされます。百済復興を支援するため、皇子は数万の大軍を朝鮮半島に派遣しますが、663年の「白村江(はくすきのえ)の戦い」で日本軍の船は燃やされ、歴史的な大惨敗を喫してしまいます。これにより日本は「唐に攻められるかもしれない」という国家存亡の危機に直面しました。
大ピンチに陥った皇子は、すぐに九州の防衛を強化します。太宰府を守るために「水城(みずき)」という巨大な堤防と堀を築き、朝鮮式山城を建設。さらに東国から兵士を徴集して「防人(さきもり)」として沿岸の警備にあたらせました。外国からの侵略を未然に防ぐため、かつてない規模の国防システムを急ピッチで作り上げたのです。
さらに皇子は、海から攻められやすい飛鳥を離れ、内陸部である近江大津宮(現在の滋賀県大津市)への遷都を強行します。人々の反対も多くありましたが、防衛上の理由と、旧体制のしがらみを断ち切るための強い決断でした。琵琶湖の水運を活かした新しい都で、国家体制のさらなる引き締めを図ります。
白村江の戦いから5年後の668年、皇子はついに近江大津宮で正式に即位し、第38代「天智天皇」となりました。乙巳の変のクーデターから実に23年もの間、皇太子として実権を握り続けてからの満を持しての即位でした。国難を乗り越えるため、正式なトップとしての強力なリーダーシップが求められたのです。
天皇としての最大の功績が、670年に作成された日本初の全国的な戸籍「庚午年籍(こうごねんじゃく)」です。誰がどこに住んでいるかを国が正確に把握することで、税金を確実に集め、兵役を課すことができるようになりました。これは、国家が国民を直接管理する強力な中央集権システム(律令国家)の重要な基礎となりました。
数々の大改革を成し遂げた天智天皇ですが、671年に重病に倒れます。後継者として、共に改革を支えてきた優秀な弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)ではなく、自分の息子である大友皇子(おおとものおうじ)を指名したことで、激しい権力闘争の火種を残してしまいます。翌年の崩御後、その火種は古代最大の内乱「壬申の乱」となって爆発することになります。