明治から大正にかけて、日本の政治と教育を引っ張った超エネルギッシュな偉人です!佐賀藩(佐賀県)の出身で、明治新政府では日本初の鉄道を建設するなど大活躍。しかし、考え方の違いから政府を追い出されると、立憲改進党という政党を作って民主主義のために戦いました。さらに、現在の早稲田大学(東京専門学校)を創設し、自由な考えを持つ若者をたくさん育てたことでも有名です。テロで右足を失っても決して屈せず、2度も内閣総理大臣を務め、「民衆政治家」として国民から絶大な人気を集めました!
1838年、肥前国(佐賀県)の佐賀藩で上級武士の家に生まれました。幼い頃からとても優秀でしたが、同時にものすごい熱血漢で反骨精神(おかしいと思ったことには反発する心)の塊でした!藩の学校(弘道館)の古臭い教育方針に「こんなの今の時代に合わない!」と猛反発して、なんと学校を退学になってしまいます。この「権力や古いルールに縛られない自由な心」が、のちの大隈の人生の最大の武器となっていきます。
退学になった大隈は、オランダ語(蘭学)を学ぶために長崎へ向かいます。さらに「これからは英語の時代だ!」と気づき、アメリカ人の宣教師フルベッキから英語や西洋の最新の政治・法律を猛勉強しました。この長崎での最先端の学びと、坂本龍馬など全国から集まった志士たちとの熱い交流が、大隈の目を世界へと大きく開かせ、新しい日本を作るための強力な知識と人脈を育むことになりました。
明治維新後、大隈は新政府のエリート役人として大抜擢されます。得意の英語と外交センスで、外国からお金を借りて日本の近代化を猛スピードで進めました。特に有名なのが、1872年の鉄道の開業です!東京の「新橋」から「横浜」までの日本初の鉄道建設の責任者となり、大反対する保守派を押し切って見事にSL(蒸気機関車)を走らせました。日本の交通と産業の歴史が大きく動いた瞬間です。
大隈は「イギリスのように、国民の代表が話し合う議会(国会)を早く作るべきだ!」と強く主張しました。しかし、伊藤博文らは「まだ早すぎる!ドイツのような天皇中心のルールにすべきだ」と激しく対立。1881年、ついに大隈は政府から無理やりクビにされて追い出されてしまいます。これを明治十四年の政変と呼びます。エリート街道からの突然の転落でしたが、大隈の闘志はさらに燃え上がりました!
政府を追い出された翌年の1882年、大隈は「それなら自分たちで政党を作って、国民のための政治をやろう!」と立ち上がります。そして、テストに絶対に出る立憲改進党(りっけんかいしんとう)という新しい政党を結成しました!イギリス流の議会政治を目指し、同じ時期に板垣退助(いたがき たいすけ)が作った自由党とともに、自由民権運動の強力なリーダーとして国民から大歓声を浴びることになります。
政党を作ったのと同じ1882年、「これからの新しい国づくりには、政府に頼らない『独立した精神』を持つ若者が必要だ!」と考え、東京専門学校という学校を創設しました。これがのちの早稲田大学です!当時は政府の学校(東京大学)が一番とされていましたが、大隈の学校は「学問の独立」を掲げ、自由でエネルギッシュな学生たちを次々と世に送り出し、日本の教育界に巨大な風穴を開けました。
その後、大隈の実力を無視できなくなった政府は、彼を「外務大臣」として呼び戻します。彼は外国との不平等条約を改正しようと必死に交渉しますが、反対派の過激な青年に爆弾を投げつけられ、なんと右足を切断する重傷を負ってしまいます!普通なら政治家を引退する大ケガですが、大隈は義足をつけて奇跡の復活を果たし、「テロには絶対に屈しない!」と、さらに力強く政治の表舞台に立ち続けました。
1898年、かつてのライバルであり、自由民権運動のもう一人の英雄である板垣退助(いたがき たいすけ)とがっちりタッグを組みます。なんと日本で初めて、政党のメンバーが中心となる内閣(政府)を作り上げました!大隈の「隈」と板垣の「板」をとって隈板内閣(わいはんないかく)と呼ばれます。大隈自身も初めて内閣総理大臣に就任し、「ついに政党内閣ができた!」と日本中が大熱狂に包まれました。
時は流れ、大隈が76歳になった1914年。日本が政治の混乱で大ピンチに陥ると、「この危機を救えるのは人気者の大隈さんしかいない!」と、なんと二度目の総理大臣に選ばれます。ちょうど第一次世界大戦が始まった時期であり、大隈内閣はイギリスの同盟国として参戦を決定しました。さらに中国に対して「二十一カ条の要求」を突きつけるなど、力強い外交を展開して日本の国際的な地位を大きく高めました。
総理大臣を引退した後も、大隈のエネルギーは衰えません。「演説の神様」と呼ばれた彼は、新しい機械である蓄音機(レコード)に自分の声を録音して全国に配るなど、メディアを使った最先端のアピールで国民にメッセージを届け続けました。1922年、83歳で亡くなった時、日比谷公園で行われたお葬式「国民葬」には、なんと30万人以上もの人々が別れを惜しんで駆けつけ、民衆から愛され続けた巨星の最期を看取りました。