大村 純忠 おおむら すみただ

1533年 - 1587年 戦国 - 安土桃山時代
生没年月日: 天文2年(1533年) 〜 天正15年5月18日(1587年6月23日)
出身: 肥前国(長崎県島原市) 戦国大名、キリシタン大名
戦国時代の九州において、日本で初めて洗礼を受けた「日本初のキリシタン大名」であり、現在へと続く国際都市「長崎」の港を開いた偉大なる開拓者です!肥前国(長崎県)の名門・有馬氏に生まれ、大村氏の養子となって家督を継ぎました。ポルトガル船との南蛮貿易による莫大な利益に着目し、1563年に自ら洗礼を受けて「ドン・バルトロメオ」という洗礼名を与えられます。熱心な信仰心と貿易の拠点として、横瀬浦や福田を経て、ついに1570年に「長崎開港」を実現!西洋の最先端の武器や文化を積極的に取り入れました。しかし、熱狂的な信仰ゆえに領内の寺社を徹底的に破壊したため、家臣や領民の猛反発を招き、さらに「肥前の熊」と恐れられた猛将・龍造寺隆信からの猛烈な侵攻を受けるなど、その生涯は常に絶体絶命の危機と隣り合わせでした。この危機を乗り越えるため、彼はなんと長崎の地をイエズス会に寄進(寄付)するという日本史上前代未聞の決断を下します。また、大友宗麟や有馬晴信と共に、ヨーロッパへ向けて天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)を派遣し、ローマ教皇との謁見を果たさせました。晩年は豊臣秀吉の九州平定に従って領地を安堵されますが、バテレン追放令が出される直前に病で静かに息を引き取りました。信仰と貿易に己のすべてを懸け、長崎を世界へと開いた先駆者のドラマチックなストーリーです!
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名門・有馬氏からの養子入り

1533年、島原半島の有馬氏に生まれましたが、大村氏の養子に出されて家督を継ぎました。これが養子先の複雑なお家騒動を引き起こす原因ともなり、若き日から苦難の道を歩むことになります。
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南蛮貿易の莫大な利益

ポルトガル船がもたらす火縄銃などの最新兵器や、絹織物などの莫大な貿易利益にいち早く目をつけ、彼らを自分の領地に招き入れて国力を強化しようと画策します。
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日本初のキリシタン大名誕生!

貿易を有利に進めるため、また宣教師の教えに感銘を受けて、1563年に大名として日本で初めて洗礼を受けました。洗礼名は「ドン・バルトロメオ」です。

国際都市「長崎」の開港

ポルトガル船の安全な停泊地を探し求め、1570年に当時小さな漁村に過ぎなかった「長崎」を開港!ここから長崎は世界に開かれた国際都市へと急速に発展していきます。
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熱狂的信仰と寺社の破壊

キリスト教への信仰が熱狂的になるあまり、領内にある仏像や神社仏閣を徹底的に破壊し、領民にも改宗を強制したため、古くからの家臣たちの激しい反発と反乱を招きました。
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絶体絶命!「肥前の熊」の脅威

「肥前の熊」と恐れられた猛将・龍造寺隆信からの猛烈な侵攻を受け、領地を奪われて何度も滅亡の危機に瀕します。大村純忠の生涯はまさに死闘の連続でした。

衝撃!長崎をイエズス会へ寄進

龍造寺の脅威から長崎の港を守るため、なんと1580年に長崎の土地をキリスト教の修道会である「イエズス会」に丸ごと寄進(寄付)するという前代未聞の決断を下しました。
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夢を託した天正遣欧少年使節

大友宗麟、有馬晴信と共に、4人の少年からなる「天正遣欧少年使節」をヨーロッパへ派遣。純忠の甥である千々石ミゲルも使節に選ばれ、ローマ教皇との謁見を見事に果たしました。
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秀吉の九州平定と領地安堵

天下人となった豊臣秀吉が九州平定に乗り出すと、いち早く秀吉に恭順して味方につきました。この見事な政治的判断により、大村氏の領地は無事に守られました。
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バテレン追放令の直前の死

秀吉がキリスト教を禁止する「バテレン追放令」を出すわずか1ヶ月前、結核(または咽頭がん)により55歳でこの世を去りました。弾圧を見ることなく信仰を守り抜いた数奇な運命の終幕でした。
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