1533年、島原半島の有馬氏に生まれましたが、大村氏の養子に出されて家督を継ぎました。これが養子先の複雑なお家騒動を引き起こす原因ともなり、若き日から苦難の道を歩むことになります。
ポルトガル船がもたらす火縄銃などの最新兵器や、絹織物などの莫大な貿易利益にいち早く目をつけ、彼らを自分の領地に招き入れて国力を強化しようと画策します。
貿易を有利に進めるため、また宣教師の教えに感銘を受けて、1563年に大名として日本で初めて洗礼を受けました。洗礼名は「ドン・バルトロメオ」です。
ポルトガル船の安全な停泊地を探し求め、1570年に当時小さな漁村に過ぎなかった「長崎」を開港!ここから長崎は世界に開かれた国際都市へと急速に発展していきます。
キリスト教への信仰が熱狂的になるあまり、領内にある仏像や神社仏閣を徹底的に破壊し、領民にも改宗を強制したため、古くからの家臣たちの激しい反発と反乱を招きました。
「肥前の熊」と恐れられた猛将・龍造寺隆信からの猛烈な侵攻を受け、領地を奪われて何度も滅亡の危機に瀕します。大村純忠の生涯はまさに死闘の連続でした。
龍造寺の脅威から長崎の港を守るため、なんと1580年に長崎の土地をキリスト教の修道会である「イエズス会」に丸ごと寄進(寄付)するという前代未聞の決断を下しました。
大友宗麟、有馬晴信と共に、4人の少年からなる「天正遣欧少年使節」をヨーロッパへ派遣。純忠の甥である千々石ミゲルも使節に選ばれ、ローマ教皇との謁見を見事に果たしました。
天下人となった豊臣秀吉が九州平定に乗り出すと、いち早く秀吉に恭順して味方につきました。この見事な政治的判断により、大村氏の領地は無事に守られました。
秀吉がキリスト教を禁止する「バテレン追放令」を出すわずか1ヶ月前、結核(または咽頭がん)により55歳でこの世を去りました。弾圧を見ることなく信仰を守り抜いた数奇な運命の終幕でした。