大村 益次郎 おおむら ますじろう

1824年 - 1869年 幕末 - 明治時代初期
生没年月日: 文政7年5月3日(1824年5月30日) 〜 明治2年11月5日(1869年12月7日)
出身: 周防国(山口県山口市) 兵学者、軍事司令官、医師
激動の幕末から明治にかけて、村医者から長州藩の軍事司令官に大抜擢され、無敵の西洋式軍隊を作り上げた「近代日本陸軍の父」にして天才兵学者です!旧名は村田蔵六(むらたぞうろく)。大坂の適塾緒方洪庵に学び、圧倒的な語学力で塾頭にまで登り詰めました。オランダ語の兵書を翻訳して西洋兵学を完全にマスターした彼は、桂小五郎(木戸孝允)の強力なスカウトで長州藩に仕えます。第二次長州征伐では、最新のライフル銃と合理的な戦術を用いて、四方から押し寄せる圧倒的多数の幕府軍を次々と撃破!戊辰戦争における上野戦争では、江戸を火の海にすることなく、幕府の残党「彰義隊」を時計を見ながらたった1日で鎮圧するという神業の指揮を見せました。愛想が全くなく「火吹き達磨」とあだ名されるほどの究極の合理主義者であり、武士の特権を廃止して一般庶民からなる「国民皆兵」の軍隊の創設を目指しました。しかし、特権を奪われることに反発した不平士族によって京都で暗殺されてしまい、志半ばで倒れます。現在も東京の靖国神社には、彼が指揮を執った上野の方角を見つめる巨大な銅像が建っている、冷徹なまでに優秀な軍事の天才のストーリーです!
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村医者の息子とオランダ語の才能

1824年、周防国(山口県)の村医者の長男として生まれます。家業を継ぐために医学や蘭学(オランダ語)を学び始めますが、生来の優れた頭脳でメキメキと頭角を現し、語学の天才としての才能を一気に開花させていきました。
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適塾の塾頭「村田蔵六」

23歳で大坂へ出て、蘭学の第一人者・緒方洪庵がひらく「適塾」に入門。全国から集まった秀才たちの中で圧倒的な成績を収め、ついには塾のトップ(塾頭)にまで登り詰めました。ちなみに、彼と入れ替わりで適塾に入ったのが福沢諭吉です。
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独学で極めた西洋兵学

医学だけでなく、オランダ語の兵法書を翻訳するうちに、西洋の最新の軍事技術や戦術に精通するようになります。実戦経験が全くないにも関わらず、書物からの独学だけで当時の日本トップクラスの「兵学者」へと成長しました。
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究極の合理主義「火吹き達磨」

極端に愛想が悪く、常に無表情。さらに暑い時でも首までボタンをきっちり留め、暑さで顔を真っ赤にしていたため「火吹き達磨(ひふきだるま)」とあだ名されました。無駄な会話や感情論を一切嫌う、究極の合理主義者でした。
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桂小五郎による大スカウト!

彼の軍事的な才能の凄さに目をつけたのが、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)です。桂の強い推薦により、一介の村医者であった彼が、なんと長州藩の軍事の最高責任者として大抜擢されるという異例の出世を果たしました。
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第二次長州征伐での無双

1866年の第二次長州征伐(四境戦争)では、彼の軍事の天才っぷりが大爆発します!最新式のミニエー銃を装備させ、身分を問わない奇兵隊などを合理的に指揮し、四方から攻め寄せる圧倒的多数の幕府軍を完璧な戦術で撃破しました。
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神業の指揮!上野戦争と彰義隊

戊辰戦争において、上野の山に立てこもった幕府の残党「彰義隊」の討伐を任されます。彼はアームストロング砲などの大砲を的確に配置し、なんと手元の懐中時計を見ながら予測通りにたった1日で鎮圧するという神業を成し遂げました。
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「国民皆兵」と近代陸軍の創設

新政府の軍事トップ(兵部大輔)となった彼は、武士だけが戦う古い時代を終わらせ、一般の国民全員を兵士とする「国民皆兵」による近代的なフランス式陸軍の創設を強く推し進めました。これが後の日本陸軍の強力な基礎となります。
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不平士族による暗殺劇

しかし、武士の特権である「刀」や「軍隊」を奪おうとする彼の急進的な改革は、多くの士族(元武士)たちの激しい恨みを買ってしまいます。1869年、京都の宿舎で刺客に襲撃されて重傷を負い、敗血症によって46歳でこの世を去りました。
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靖国神社から見つめる日本の未来

東京・九段の靖国神社の中央には、彼の巨大な銅像がそびえ立っています。これは日本で初めて建てられた西洋式の銅像であり、その鋭い視線は、彼が激戦の指揮を執り日本の近代化を決定づけた上野の山を今でも静かに見据えています。
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