1824年、周防国(山口県)の村医者の長男として生まれます。家業を継ぐために医学や蘭学(オランダ語)を学び始めますが、生来の優れた頭脳でメキメキと頭角を現し、語学の天才としての才能を一気に開花させていきました。
23歳で大坂へ出て、蘭学の第一人者・緒方洪庵がひらく「適塾」に入門。全国から集まった秀才たちの中で圧倒的な成績を収め、ついには塾のトップ(塾頭)にまで登り詰めました。ちなみに、彼と入れ替わりで適塾に入ったのが福沢諭吉です。
医学だけでなく、オランダ語の兵法書を翻訳するうちに、西洋の最新の軍事技術や戦術に精通するようになります。実戦経験が全くないにも関わらず、書物からの独学だけで当時の日本トップクラスの「兵学者」へと成長しました。
極端に愛想が悪く、常に無表情。さらに暑い時でも首までボタンをきっちり留め、暑さで顔を真っ赤にしていたため「火吹き達磨(ひふきだるま)」とあだ名されました。無駄な会話や感情論を一切嫌う、究極の合理主義者でした。
彼の軍事的な才能の凄さに目をつけたのが、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)です。桂の強い推薦により、一介の村医者であった彼が、なんと長州藩の軍事の最高責任者として大抜擢されるという異例の出世を果たしました。
1866年の第二次長州征伐(四境戦争)では、彼の軍事の天才っぷりが大爆発します!最新式のミニエー銃を装備させ、身分を問わない奇兵隊などを合理的に指揮し、四方から攻め寄せる圧倒的多数の幕府軍を完璧な戦術で撃破しました。
戊辰戦争において、上野の山に立てこもった幕府の残党「彰義隊」の討伐を任されます。彼はアームストロング砲などの大砲を的確に配置し、なんと手元の懐中時計を見ながら予測通りにたった1日で鎮圧するという神業を成し遂げました。
新政府の軍事トップ(兵部大輔)となった彼は、武士だけが戦う古い時代を終わらせ、一般の国民全員を兵士とする「国民皆兵」による近代的なフランス式陸軍の創設を強く推し進めました。これが後の日本陸軍の強力な基礎となります。
しかし、武士の特権である「刀」や「軍隊」を奪おうとする彼の急進的な改革は、多くの士族(元武士)たちの激しい恨みを買ってしまいます。1869年、京都の宿舎で刺客に襲撃されて重傷を負い、敗血症によって46歳でこの世を去りました。
東京・九段の靖国神社の中央には、彼の巨大な銅像がそびえ立っています。これは日本で初めて建てられた西洋式の銅像であり、その鋭い視線は、彼が激戦の指揮を執り日本の近代化を決定づけた上野の山を今でも静かに見据えています。