1793年、大坂(現在の大阪府大阪市)の東町奉行所で働く「与力(よりき)」の家系に生まれました。与力とは、町をパトロールしたり犯罪を捜査したりする、今でいう警察官や裁判官のような仕事です。幼い頃から頭が良く、わずか14歳で与力見習いとして働き始め、若い頃から正義感が強くて曲がったことが大嫌いな性格でした。
大人になった平八郎は、与力として抜群の捜査能力を発揮します。汚職を絶対に許さず、ワイロを受け取る悪徳役人や、悪いことをしている商人たちを次々と逮捕しました!そのあまりの厳しさと有能さから「大塩の前に大塩なく、大塩の後に大塩なし」と讃えられ、大坂の人々から「正義の味方」として絶大な信頼を集める大スターになります。
警察官として働きながら、彼は「陽明学(ようめいがく)」という学問に深くのめり込みます。陽明学の最も重要な教えは「知行合一(ちこうごういつ)」。つまり「正しい知識を持っていたら、必ず行動に移さなければならない。行動が伴わない知識は無意味だ!」という考え方です。この教えが、のちに彼の運命を大きく変える原動力となります。
学問を極めた平八郎は、養子に与力の仕事を譲って隠居し、自分の家に「洗心洞(せんしんどう)」という私塾(学校)を作りました。彼の熱い授業はすぐに評判を呼び、身分に関係なく、武士や豪農、町人など、彼を「先生!」と慕う弟子たちが大勢集まりました。彼らは単なる生徒ではなく、平八郎の正義感と行動力に心底惚れ込んだ熱狂的なファンでもありました。
1833年頃から、「天保の大飢饉(てんぽうのだいききん)」という恐ろしい災害が日本中を襲います。天候不良で農作物が全く育たず、全国で餓死する人が続出しました。天下の台所と呼ばれた大坂にも難民が押し寄せ、毎日多くの人が道端で飢え死にしているという、まさに地獄のような悲惨な光景が広がっていました。
人々が苦しんでいるのに、大坂の悪徳商人たちは「米の値段が上がるまで隠しておこう」と米を買い占めて大儲けをしていました。さらに、幕府の役人(大坂町奉行)は、大坂の町民を助けるどころか、将軍の就任式のために大坂の米を江戸へどんどん送ってしまったのです!これを見た平八郎の怒りは、ついに頂点に達します。
「役人が動かないなら、自分がやるしかない!」と決意した平八郎は、自分の宝物であった約5万冊もの本をすべて売り払い、そのお金で米を買って、飢えに苦しむ人々に無料で配りました。しかし、個人の力で救える人数には限界があります。「このままでは大坂の人々が全滅してしまう。もはや武力で腐った幕府を正すしかない!」と、ついに反乱を決意します。
1837年、歴史に残る「大塩平八郎の乱」が勃発します!平八郎は「救民(きゅうみん:民を救う)」と書かれた旗を掲げ、弟子や農民たち約300人を引き連れて立ち上がりました。そして、米を隠し持っている豪商たちの家を大砲や火矢で次々と攻撃し、「奪った米や金を貧しい人々に分け与えよ!」と叫びながら大坂の町を進軍しました。
しかし、この計画は事前に仲間の裏切りによって幕府側にバレていました。準備万端で待ち構えていた幕府の軍隊(かつての平八郎の同僚たち)の猛反撃に遭い、反乱軍はわずか半日でバラバラに鎮圧されてしまいます。この戦いのせいで大坂の町の約5分の1が焼け野原になるという、皮肉にも大坂の人々をさらに苦しめる大惨事となってしまいました。
反乱に失敗した平八郎は、約40日間隠れ家で潜伏しますが、ついに役人に囲まれて逃げ場を失い、火薬に火をつけて自害(爆死)しました。享年45歳。「元・幕府の超エリート警察官が、民衆のために幕府に反逆した」というニュースは日本中に信じられないほどの衝撃を与え、幕府の権威は大きく失墜します。彼の命を懸けた行動は、のちの倒幕運動へと繋がる大きなキッカケとなりました。