戦国時代の九州において、最大6カ国を支配する巨大な版図を築き上げ、日本におけるキリスト教保護の最大のパトロンとなった偉大なるキリシタン大名です!本名は大友義鎮(よししげ)。豊後国(大分県)を治める名門大友氏に生まれ、父が引き起こしたお家騒動「二階崩れの変(にかいくずれのへん)」を生き延びて当主となりました。早くから日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルを引見して保護し、ポルトガルなどとの南蛮貿易を展開。火縄銃や強力な大砲「国崩し(くにくずし)」、西洋医学(日本初の西洋式病院)、西洋音楽など、当時の最先端のテクノロジーを爆速で導入しました。名将・立花道雪ら強力な家臣団を率いて毛利元就らと激闘を繰り広げ、九州最強の大大名へと成長!1578年には自身も洗礼を受けて「ドン・フランシスコ」となり、日向国(宮崎県)にキリスト教の理想郷(神の国)を建設しようと夢見ます。しかし、南九州の覇者・島津義久と激突した「耳川の戦い(みみかわのたたかい)」で壊滅的な大敗を喫し、一気に没落の危機に陥ります。最後はプライドを捨てて大坂へ赴き、天下人・豊臣秀吉に涙ながらに救援を要請!これが秀吉の「九州平定」を引き起こし、島津軍が退却して大友氏の滅亡が回避された直後、波乱に満ちた生涯を静かに閉じました。
1530年、豊後国(大分県)を治める大友氏の嫡男として生まれます(本名は義鎮:よししげ)。21歳の時、父・義鑑が異母弟を跡継ぎにしようと目論んだためお家騒動(二階崩れの変)が勃発!これを乗り越えて当主の座に就きました。
当主となって間もない頃、日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルを豊後に招いて引見します。宗麟は彼の教えや西洋の進んだ知識に深く感銘を受け、領内でのキリスト教の布教を強力に保護・支援しました。
優れた家臣団(立花道雪や高橋紹運など)に恵まれ、北九州への進出を図ります。宿敵・毛利元就との激しい抗争(門司城の戦いなど)を繰り広げながらも勢力を拡大し、最盛期には九州6カ国を支配する九州最強の戦国大名となりました。
キリスト教の保護と引き換えに、ポルトガルなどとの「南蛮貿易」を積極的に展開!火縄銃や火薬はもちろん、西洋医学(日本初の西洋式病院の建設)や西洋音楽、さらには「国崩し」と名付けた強力なフランキ砲など、最先端の西洋文化を爆速で導入しました。
長らくキリスト教の保護者でしたが、1578年、ついに自身も洗礼を受けて「ドン・フランシスコ」という洗礼名を与えられます。熱心なキリシタン大名として、遠くヨーロッパのローマ教皇の記録にも「豊後の王」としてその名が記されました。
信仰が深まるにつれ、彼は日向国(宮崎県)の「無鹿(むしか)」という地に、キリスト教の理想郷(神の国)を建設するという壮大な夢を抱くようになり、島津氏が支配を広げる日向への大規模な軍事遠征を決行します。
信仰が熱狂的になるあまり、長年大切にされてきた領内の神社や仏閣を徹底的に破壊し、仏像を燃やすなどの過激な行動にも出ました。この急進的な政策は、家臣や領民の反発を招くという負の側面も持っていました。
1578年、日向に侵攻した大友軍は「耳川の戦い」で島津義久の軍勢と激突。しかし、島津軍の得意戦法である「釣り野伏せ」の罠に見事にはまり、多くの重臣を失うという壊滅的な大敗を喫してしまいました。ここから大友氏の急速な没落が始まります。
耳川の大敗後、島津氏の猛攻を受けて大友氏の領土は次々と奪われ、ついに本拠地の豊後まで攻め込まれる絶体絶命のピンチに!宗麟はプライドを捨てて大坂へ赴き、天下人・豊臣秀吉に涙ながらに救援(SOS)を懇願しました。
宗麟の要請を受けた秀吉は、圧倒的な大軍を率いて「九州平定」に乗り出し、島津軍を退却させます。大友氏の滅亡が回避された直後の1587年、宗麟は病により58歳でこの世を去りました。信仰と夢に生きた激動の生涯でした。