1830年、薩摩藩(鹿児島県)の下級武士の家に生まれました。幼い頃の名前は正助(しょうすけ)。ご近所さんには、のちに共に日本を動かすことになる親友の西郷隆盛が住んでいました。大柄で情に厚い西郷とは対照的に、大久保は冷静沈着で頭の回転が速く、読書や議論が大好きな論理派の少年でした。2人は互いの才能を認め合い、固い友情で結ばれながら幕末の動乱へと足を踏み入れていきます。
優秀な大久保でしたが、若い頃に父親が藩の政治トラブルに巻き込まれ、謹慎処分となる苦しい時代を過ごします。しかし彼は諦めません!新しい藩の実力者となった島津久光(しまづ ひさみつ)が囲碁好きだと知ると、囲碁を猛勉強して見事に久光の側近に大抜擢されます。この卓越した「政治的な計算と行動力」こそが大久保最大の武器。ここから薩摩藩の中心人物として、一気に歴史の表舞台に躍り出ました。
江戸幕府の力が弱まる中、大久保は「もう幕府に任せていては日本がダメになる!」と倒幕(幕府を倒すこと)を強く決意します。かつては敵同士だった長州藩(山口県)の木戸孝允らと密かに連絡を取り合い、西郷隆盛や坂本龍馬らと共に薩長同盟を成立させました。情熱で人を動かす西郷に対し、大久保は裏で緻密な交渉や根回しを完璧にこなす「最強のプロデューサー」として大活躍しました。
1867年、幕府が政権を天皇に返す大政奉還が行われますが、大久保は「徳川家の権力を完全に奪わなければ意味がない!」と強硬手段に出ます。朝廷の公家である岩倉具視(いわくら ともみ)らと協力し、王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)というクーデターを成功させました。これにより江戸幕府は完全に滅亡し、天皇を中心とする新しい明治政府が誕生。大久保はその中心リーダーとなりました。
新しい国を作るため、大久保たちは超ド級の大改革を行います。それが1871年の廃藩置県(はいはんちけん)です。何百年も続いた全国の「藩(大名の領地)」をいきなり全部なくして「県」を置き、政府が直接支配するという荒業でした。全国の武士たちから猛反発される危険な賭けでしたが、大久保の冷徹な決断力と、西郷の圧倒的な軍事力を背景に、一滴の血も流さずに見事成功させました!
国づくりが本格化する中、大久保は欧米の進んだ政治や産業を視察するため、岩倉使節団の副リーダーとして世界一周の旅に出ます。そこでイギリスの巨大な工場や黒煙を上げる鉄道を目の当たりにし、「日本の発展は、国が主導して産業を盛んにするしかない!」と強いショックを受けました。この「富国強兵・殖産興業」の考え方が、後の彼の方針を決定づけることになります。
海外視察から帰国すると、留守を任せていた親友の西郷隆盛たちが「武力で朝鮮を従わせよう」という征韓論(せいかんろん)で盛り上がっていました。しかし大久保は「今は外国と揉めている場合じゃない。国内の開発が最優先だ!」と猛反対。かつての親友同士が激しく対立し、論争に敗れた西郷は政府を辞めて故郷の鹿児島へ帰ってしまいました。冷徹な大久保も、この決別には人知れず涙したと言われています。
西郷が去った後の政府で、大久保は新しく作られた内務省のトップ「内務卿(ないむきょう)」に就任し、強大な権力を握ります。国がお金を集めるための地租改正(ちそかいせい)や、身分に関係なく軍隊を作る徴兵令などを強引に推し進めました。あまりのスピード改革に「冷酷な独裁者だ!」と批判されながらも、日本が外国に飲み込まれないよう、嫌われ者になる覚悟で国づくりを牽引したのです。
急激な近代化により、特権を奪われた全国の士族(元武士)たちの不満が爆発します。1877年、ついに西郷隆盛を総大将とした反乱軍が鹿児島で決起し、西南戦争(せいなんせんそう)が勃発!大久保は心を鬼にして政府軍を送り込み、最新の兵器を使ってかつての親友を徹底的に討ち破りました。西郷の死を知った大久保は、周囲が驚くほど号泣し、「自分の死も近いだろう」と呟いたと伝えられています。
西南戦争の翌年(1878年)、大久保は東京の紀尾井坂で、彼の強引な政治に不満を持つ不平士族たちに暗殺されてしまいます(紀尾井坂の変)。享年49歳。独裁者と呼ばれた彼ですが、死後に調べると個人の財産は全くなく、国の公共事業に自分のお金をつぎ込んでいたため、なんと莫大な借金だけが残されていました。私利私欲を捨て、日本を近代国家にするためだけに命を削った、真の愛国者の最期でした。