1867年、江戸(東京)で名主の家の五男として生まれましたが、両親が高齢であったため「恥ずかしい」とされ、生まれてすぐに古道具屋へ里子に出されました。夜泣きするとザルに入れられて塩を揉み込まれたという、愛情に飢えた孤独な幼少期を過ごします。
大学予備門(のちの第一高等学校)時代に、同級生の正岡子規と出会います。文学をこよなく愛する子規から多大な影響を受け、俳句に没頭。負けず嫌いな性格(石に漱ぎ流れに枕す)から、子規のペンネームの一つであった「漱石」を譲り受けて名乗るようになりました。
東京帝国大学(現在の東京大学)の英文科に進学し、特待生として抜群の成績を収めます。卒業後はエリート英語教師として愛媛県の松山中学や熊本県の第五高等学校に赴任。この松山での教師体験が、のちの大ベストセラー『坊っちゃん』のベースとなりました。
1900年、文部省の命を受けてイギリスのロンドンへ留学します。しかし、最先端の西洋文明と日本人である自分との間に強烈な劣等感を抱き、極度の孤独と資金不足から重度の「神経衰弱」に陥ってしまいました。部屋に引きこもり、狂ったように本を読み漁る日々を送ります。
帰国後、東京帝国大学の講師になりますが、神経衰弱は治りませんでした。そこで、高浜虚子から「気晴らしに文章でも書いてみたら?」と勧められて執筆したのが『吾輩は猫である』です。これが雑誌ホトトギスで大絶賛され、38歳にして遅咲きの小説家デビューを果たしました。
『坊っちゃん』や『草枕』などを次々と発表して超人気作家となった彼は、1907年、なんと周囲が羨む東京帝国大学の教授への道をあっさりと捨て、朝日新聞社に「専属のプロ小説家」として入社します!ここから彼の本格的な職業作家としての人生が幕を開けました。
1910年、持病の胃潰瘍が悪化し、療養先の伊豆・修善寺の温泉宿で大量の血を吐いて倒れます(修善寺の大患)。約30分間も一時的な「死」の状態に陥るという壮絶な体験をし、これ以降、彼の作品は人間のエゴイズム(利己心)や生と死を深く見つめる重厚なものへと変化していきます。
毎週木曜日の午後、彼の自宅(漱石山房)には多くの若き学生や文学者たちが集まりました。「木曜会」と呼ばれたこのサロンで、彼は気さくに若者たちと語り合い、あの芥川龍之介や久米正雄など、のちの日本文学を背負って立つ多くの優秀な才能を見出し、育て上げました。
晩年の代表作『こころ』では、親友を裏切って恋人を得た主人公「先生」の恐ろしい罪悪感とエゴイズムを鋭く冷徹に描き出しました。人間の心の奥底にある暗い闇と孤独を克明に描いたこの作品は、現在でも日本で最も読まれている小説の一つとして圧倒的な支持を得ています。
小さな私心(エゴ)を捨てて、自然の大きな法則に従って生きる「則天去私(そくてんきょし)」という理想の境地を目指しながら、大作『明暗』の執筆に取り掛かります。しかし1916年、執筆の途中で胃潰瘍が再発し、「水が飲みたい」という言葉を最後に49歳でこの世を去りました。