758年、渡来人のルーツを持つ武門の名門・坂上氏に生まれました。先祖の阿知使主(あちのおみ)から続く弓馬の達人の家系で、父の苅田麻呂も朝廷で活躍した優秀な武将でした。田村麻呂は幼い頃から武芸の英才教育を受け、国の軍隊を率いるためのエリートとして成長していきます。
彼の容姿については「身長は五尺八寸(約175cm以上)、胸の厚さは一尺二寸(約36cm)、目は鷹のように鋭く、怒って睨めば猛獣も倒れ、笑えば赤子もなつく」という凄まじい伝説が残されています。当時の平均身長が160cm程度だったことを考えると、まさに「歩く要塞」のような超マッシブな体格と強烈なカリスマ性を持っていました。
当時、朝廷は東北地方(蝦夷)を支配しようと軍隊を派遣していましたが、現地のゲリラ戦術に大苦戦し、「三十八年戦争」と呼ばれる泥沼の戦いに陥っていました。朝廷軍が次々とボロ負けする中、桓武天皇はついに若く優秀な田村麻呂を副将軍(後に総司令官)として抜擢!「彼しかこの戦いを終わらせられない」という切り札としての投入でした。
797年、田村麻呂はついに「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」に任命されます!これは「蝦夷(東北地方の反乱軍)を征討するための最高の司令官」という意味の役職です。のちの源頼朝や徳川家康などが就任する幕府のトップの役職ですが、その「大将軍=最高に強くて頼りになる武将」という圧倒的なブランドイメージを作ったのは、間違いなくこの田村麻呂の活躍があったからです。
田村麻呂の前に立ちはだかったのが、蝦夷のカリスマ的なリーダー「阿弖流為(アテルイ)」です。アテルイは地の利を活かした神出鬼没の戦術で、かつての朝廷軍を全滅させたほどの猛将でした。田村麻呂は力任せに突撃するのではなく、補給線を確保し、現地の民衆に食糧を与えるなど、武力と優しさを使い分ける高度な戦略でアテルイを少しずつ追い詰めていきます。
802年、田村麻呂は敵のど真ん中である岩手県に「胆沢城(いさわじょう)」という巨大な軍事要塞を築きます。ただの城ではなく、蝦夷の人々を朝廷の味方に引き入れるための政治・経済の拠点でもありました。徹底した平和的な懐柔工作と、圧倒的な軍事力を背景にしたこのプレッシャーにより、ついに蝦夷の軍勢は戦意を喪失していきます。
ついに観念したアテルイは、約500人の仲間とともに田村麻呂の陣へ降伏を申し出てきました。長年の激戦を戦い抜いた両者の間には、いつしか敵味方を超えた武将としての「絆」や「リスペクト」が芽生えていました。田村麻呂は「彼らの命は必ず私が守る」と固く約束し、アテルイと副将のモレを連れて京都へと凱旋しました。
京都に戻った田村麻呂は、桓武天皇や貴族たちに向かって「アテルイを東北に帰して、彼らに東北を平和に治めさせましょう!」と必死に助命嘆願(命乞い)をしました。しかし、貴族たちは「一度刃向かった野蛮人の約束など信じられない!」と大反対し、無情にもアテルイとモレは処刑されてしまいます。約束を守れなかった田村麻呂は、血の涙を流して激しく悔しがったと言われています。
実は京都の大人気観光スポットである世界遺産「清水寺(きよみずでら)」を創建したのは田村麻呂です!妻の病気を治すために鹿の血を求めて音羽山に入った時、延鎮(えんちん)という僧侶から「殺生をしてはいけない」と諭され、観音様を深く信仰するようになりました。そして自分のお屋敷を寄付して立派なお堂を建てたのが、清水寺の始まりとされています。
811年、54歳で病没します。嵯峨天皇は彼の死を深く悲しみ、特別な命令を出しました。「彼を甲冑姿のまま、立った状態で棺に入れ、平安京に向かって埋葬せよ!」と。死してなお、都を怨霊や外敵から守る「王城の鎮護(守護神)」として京都の東(将軍塚)に葬られたのです。圧倒的な武力と、敵を思いやる優しさを兼ね備えた、まさに日本史上最高の「完璧な英雄」の生涯でした。