1830年、長州藩(山口県)の兵学師範である杉家の次男として生まれ、叔父の吉田家に養子に入ります。叔父からは「ハエが顔に止まっても手で払ってはいけない!」という超スパルタ教育を受け、幼い頃から武士としての厳しい心構えと山鹿流兵学を徹底的に叩き込まれました。
その天才ぶりは凄まじく、なんとわずか11歳にして長州藩主・毛利敬親の面前で『武教全書』の講義(御前講義)を行います!大人顔負けの堂々とした態度と完璧な解説に藩主も大絶賛し、一躍「長州藩に吉田松陰あり」と神童の噂が広まりました。
エリートコースを歩んでいた松陰ですが、「書物だけでなく、自分の足で日本の現状を見なければ!」と、友人と約束した東北旅行へ出発するため、なんと許可を待たずに「脱藩(藩を抜け出す重罪)」してしまいます!常識やルールよりも自分の「志」を優先する破天荒な性格が早くも表れています。
1853年、ペリーの黒船が来航すると「敵を知るには直接外国へ行くしかない!」と考えます。翌年、夜の海を小さなボートで漕ぎ出し、下田に停泊していた黒船に「アメリカへ連れて行ってくれ!」と直談判に挑みました。密航は断られましたが、ペリーはその知性と勇気に深く感動したと記録に残しています。
密航に失敗して自首した松陰は、長州藩の野山獄(牢屋)に投獄されます。しかしここからが松陰のスゴいところ!絶望するどころか「ここで皆で学問をしましょう!」と、なんと牢屋の中で囚人たちに向けて熱い講義を始め、すさんでいた囚人や看守たちまでをも次々と感化してしまったのです。
牢屋を出た後、実家の敷地内にある幽閉室で若者たちに学問を教え始めます。これが、のちに日本を動かす伝説の学校『松下村塾(しょうかそんじゅく)』です!武士だけでなく、農民でも町人でも「学びたい」という志があれば身分を問わず誰でも受け入れる、当時としては極めて画期的な学校でした。
松陰の授業は、ただ本を読むだけではありません。「君はどう思うか?」「学んだことをどう行動に移すのか?」と、常に実践を問う熱血スタイルでした。「狂を存せよ(常識という枠からハミ出して、本気で狂ったように行動しろ!)」と、若者たちの魂に火をつけ続けました。
松下村塾で学んだ期間は、わずか2年半ほどです。しかしその短い間に、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋など、のちの時代を創る超重要人物たちが次々と育ちました。松陰は彼らを「生徒」としてではなく「一緒に日本を変える同志」として愛し、深く信頼し合っていました。
幕府が天皇の許可なく不平等条約を結ぶと、松陰は激怒し「幕府の老中(間部詮勝)を暗殺する!」という過激な計画を立てます。しかし、高杉晋作ら弟子たちは「それは無謀すぎます!」と猛反対。誰一人として賛同してくれず、松陰は「今の長州藩や弟子たちにはもう期待しない」と孤独な戦いへ向かいます。
幕府の大弾圧「安政の大獄」によって江戸に送られ、1859年に29歳の若さで処刑されます。死の直前に書かれた遺書『留魂録』の冒頭の辞世の句「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」には、「私の肉体が滅んでも、この志は必ず誰かが引き継いでくれる」という究極の至誠(真心)が込められていました。