1283年頃、京都の吉田神社などの神職を代々務める名門・卜部(うらべ)氏の家に生まれました。のちに吉田氏を名乗るようになったため「吉田兼好」と呼ばれていますが、彼が生きていた当時の正式な本名は卜部兼好(うらべのかねよし)です。
非常に優れた教養と才能を持っていた彼は、朝廷に出仕し、後宇多上皇の側近(六位の蔵人など)として仕えました。上皇から深く寵愛され、宮廷の華やかな文化の中で順調なエリート街道を歩み始めます。
しかし、30歳前後で突然すべてを捨てて出家し、「兼好法師」と名乗るようになります。出家の理由は現在でもハッキリと分かっておらず、主君である後宇多上皇の死を悲しんだためとも、身分違いの失恋が原因だとも言われています。
出家後、日々の生活の中で感じたことや見聞きしたエピソードをノートに書き留め始めました。これが「つれづれなるままに、日暮らし硯にむかひて…」という有名な序段で始まる、全243段からなる超名作エッセイ『徒然草』です。
彼の美意識の根底には「無常観(すべてのものは移り変わる)」があります。「桜は満開の時だけでなく、散り際や咲き始めこそ美しい」「月は満月だけでなく、雲に隠れている姿も趣がある」など、不完全なものに美しさを見出す日本独自の感覚を決定づけました。
『徒然草』が面白いのは、真面目な話ばかりではない点です。「仁和寺の法師が石清水八幡宮へ行ったが、手前の神社だけを見て帰ってきてしまった」という失敗談など、人間の滑稽さや「あるあるネタ」をユーモアたっぷりに描いています。
宮廷の儀式やルール、建築の様式などにめちゃくちゃ詳しい「有職故実(ゆうそくこじつ)オタク」でもありました。「家の作りようは、夏をむねとすべし(家は夏を涼しく過ごせるように建てるべき)」など、生活に密着した超実用的なアドバイスも書き残しています。
随筆家として有名ですが、実は当時の世間では「超一流の歌人」として広く知られていました。同時代の有名な歌人である頓阿(とんあ)や浄弁(じょうべん)らと共に「和歌四天王」の一人に数えられるほど、その才能は高く評価されていました。
山にこもる隠遁者でありながら、実はとても社交的で顔が広く、公家から武士まで多くの有力者と交流がありました。室町幕府の強大な武将・高師直(こうのもろなお)から頼まれて、彼が惚れた女性(塩冶高貞の妻)へのラブレターを代筆したという有名な伝説も残っています。
彼が亡くなった後、『徒然草』はすぐには有名になりませんでしたが、数百年後の江戸時代になってから再評価され、町人たちの間で大大大ベストセラーとなりました!彼の人生哲学や美意識は、時代を超えて現代の日本人の心にも深く根付いています。