1867年、和歌山の裕福な商家に生まれます。幼い頃から異常なほどの記憶力を持ち、なんと全105巻にも及ぶ江戸時代の百科事典『和漢三才図会』を、毎日他人の家で読ませてもらっては家に帰って丸暗記で書き写すという神業をやってのけました。
大学予備門(のちの東京大学)に進学しますが、学校の勉強には目もくれず、遺跡の発掘や菌類の研究に没頭して中退してしまいます。「日本は狭すぎる!」と19歳で単身アメリカへ渡り、その後さらにイギリスへと渡航しました。
イギリスでは大英博物館に通い詰め、世界中の膨大な書物を読み漁りました。18か国語を操る語学力を武器に、世界的権威のある科学雑誌『ネイチャー』に次々と英語で論文を投稿し、歴代トップクラスとなる51本もの論文が掲載されました!
ロンドン滞在中、清王朝を倒すために亡命していた中国の革命家・孫文と出会い、意気投合します。東洋の未来について熱く語り合い、孫文がロンドンを去る際には、熊楠が別れを惜しんで熱い抱擁を交わしたという親友同士でした。
非常に気性が荒く、破天荒な性格でもありました。大英博物館でイギリス人に東洋人として馬鹿にされたり、自分の研究を邪魔されたりすると、大声で怒鳴り散らしたり暴力を振るったりしたため、なんと博物館を出入り禁止になってしまいます。
14年間の海外生活を終えて帰国し、故郷・和歌山県の那智や田辺の森にこもって「粘菌(変形菌)」の研究に没頭します。動物と植物の両方の性質を持つ不思議な生物・粘菌を通して、彼は生命と宇宙の根源的な謎を解き明かそうとしました。
明治政府が全国の小さな神社を合併し、その跡地の森(鎮守の森)を伐採して売り飛ばす「神社合祀」を強行。熊楠は「自然の生態系と地域文化の破壊だ!」と激怒し、政治家や学者に猛抗議する日本初の自然保護運動(エコロジー)を展開しました。
神社合祀反対運動の中で、役人が主催する集会に泥酔して乱入し、物を投げつけるなどの大暴れをしてしまい、「官吏侮辱罪」で逮捕・投獄されてしまいます。しかし彼は牢屋の中でも平然と粘菌の新種を発見し、研究を続けていたという伝説が残っています。
1929年、生物学者でもあった昭和天皇が和歌山の神島を訪問された際、熊楠がご進講(案内と解説)を務めました。その際、天皇陛下への献上品の粘菌標本を、桐の箱ではなく「森永キャラメルの空き箱」に入れて渡したという超絶エピソードを残しています。
1941年、「天井に紫色の花が咲いているから、医者を呼ぶな(気が散るから)」という言葉を残して74歳で亡くなりました。彼の死後、その天才的な頭脳の構造を調べるために脳が摘出され、今も大切に保管・研究されています。