1522年、和泉国(現在の大阪府)の堺で、有力な水産商人(豪商)である「魚屋(ととや)」の長男として誕生します。幼い頃の名前は与四郎(よしろう)といいました。当時の堺は、海外との貿易で栄えた自由で豊かな商業都市です。利休は、そんな活気あふれる豊かな商人文化の中で、様々な知識や教養を身につけながら育っていきました。
若い頃から「茶の湯」の世界に惹かれた彼は、北向道陳(きたむき どうちん)という人物を先生にしてお茶を学び始めます。その後、室町文化の素晴らしいエッセンスを受け継ぐ大茶人・武野紹鴎(たけの じょうおう)に弟子入りしました。天才的なセンスを持っていた彼は、ここでメキメキと頭角を現し、一流の茶人への階段を駆け上がっていきます。
当時、天下統一を目指す織田信長は、堺の町を武力で支配し、「茶の湯」を政治の道具として利用し始めます(御茶湯御政道)。ここで利休は、今井宗久(いまい そうきゅう)、津田宗及(つだ そうぎゅう)と共に、信長の「茶頭(さどう)」に大抜擢されました!一介の商人でありながら、日本の中央の政治舞台に堂々と登場したのです。
本能寺の変で信長が亡くなった後、利休は次の天下人となった豊臣秀吉に仕えることになります。秀吉は利休のセンスと知性を深く信頼し、単なるお茶の先生としてだけでなく、政治の最高顧問(相談役)としても重用しました。「利休に相談しなければ、国の重要なことは決まらない」と言われるほど、絶大な権力を握るようになります。
1585年、秀吉が朝廷で関白という最高の役職に就任し、宮中で天皇にお茶を献上するイベント(禁中茶会)を開きました。この時、秀吉をサポートした彼に対し、正親町天皇(おおぎまちてんのう)から「利休」という最高位の格式高い名前(居士号:こじごう)がプレゼントされました!これ以降、彼は「千利休」と名乗るようになります。
派手なことが大好きな秀吉の命令により、利休はとんでもないものを作らされます。なんと、壁や柱、障子の骨組みからお茶の道具に至るまで、すべてを純金で作った、キラキラで豪華絢爛な「黄金の茶室」を設計したのです!持ち運びもできるこの茶室は、秀吉の圧倒的な権力とリッチさを世間にアピールするための最高のアイテムでした。
1587年、秀吉が京都の北野天満宮で開催した、超大規模なイベント「北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)」を主導(プロデュース)します。身分を問わず「お茶が好きな人は誰でも参加OK!」という前代未聞の大茶会で、日本中の人々がお茶を楽しみました。利休は秀吉と共に、日本の茶の湯文化を最高潮にまで盛り上げたのです。
黄金の茶室を作る一方で、利休自身が本当に美しいと考えていたのは全く逆のスタイルでした。わずか二畳という狭い茶室(待庵:たいあん)を作り、高価な道具ではなく、身近な竹や泥土で作った素朴な道具を使います。無駄なものを一切なくし、精神的な深さを極めたこのスタイルを侘び茶(わびちゃ)と呼び、現代の茶道のルーツを完成させました。
しかし、豪華で派手なものが大好きな秀吉と、質素で精神性を大切にする利休の「美のセンス」は、次第にズレていってしまいます。さらに、政治に口を出しすぎる利休に対して、周りの大名たちから「あのお茶屋、調子に乗っているぞ」と警戒されるようになりました。かつては最高に仲が良かった秀吉と利休の関係は、少しずつ悪化していくのです。
1591年、京都の大徳寺の門に「自分の木像」を置いたことが大問題になります。秀吉が下を通った時に「利休に頭を踏ませることになる!」と激怒し、なんと利休に切腹を命じたのです。弟子たちが必死に謝るように説得しましたが、利休は自分の美学とプライドを曲げず、一歩も引かずに自らお腹を切りました(享年70)。美のために命を懸けた、カリスマ茶人の壮絶な最期でした。