1765年、駿河国(現在の静岡市)で、幕府の役人を務める武士の家に生まれました。本名は重田貞一(しげた さだかず)。幼い頃から駿河の豊かな文化に触れて育ったことが、後の創作活動の原点となりました。
青年期になると大坂へ赴き、武士として奉公に出ます。しかし長続きせずに役人を辞めてしまい、浄瑠璃(人形劇)の作者として活動するなど、早くからエンターテインメントの世界に足を踏み入れました。
20代後半で江戸へ下り、あの東洲斎写楽や喜多川歌麿を世に出した伝説の出版プロデューサー・蔦屋重三郎の家に食客(居候)として転がり込みます。ここで本格的に「十返舎一九」と名乗り、戯作者としての道を歩み始めました。
1802年、彼が38歳の時に運命の作品『東海道中膝栗毛』の初編を出版します。「膝栗毛」とは、自分の膝を馬の代わりに使って歩く(徒歩旅行)という意味であり、当時の庶民のリアルな旅のスタイルを描き出しました。
物語の主人公は、お調子者でスケベな「弥次郎兵衛」と、クールぶるが結局失敗する「喜多八」のコンビ(通称:弥次喜多)。行く先々で騙されたり勘違いをしてドタバタ劇を繰り広げる二人の姿に、江戸中が腹を抱えて大爆笑しました!
この小説は単なるギャグ小説ではなく、宿場町の名物や名所、旅の費用などが非常に正確に描かれていました。そのため、江戸の庶民たちはこの本を「最新のトラベルガイド」としてこぞって買い求めたのです。
『東海道中膝栗毛』の圧倒的な人気により、江戸に空前の旅行(お伊勢参り)ブームが到来!読者からの「続きが読みたい!」という熱烈なアンコールに応え、なんと20年以上にわたって続編(金毘羅参りや宮島参りなど)を書き続ける超ロングセラーとなりました。
文章が面白いだけでなく、実は絵も字も非常に上手かった一九。自分の小説の挿絵(浮世絵)を自ら描き、版下(印刷の原稿)の文字まで自分で書いてしまうという、当時の出版界では非常に珍しいマルチクリエイターでした。
物語の中の弥次喜多はだらしない性格ですが、作者の一九本人は非常に真面目で几帳面な性格でした。出版元の締切を絶対に守り、曲亭馬琴らと並んで「原稿料だけで家族を養った日本初のプロ専業作家」の一人と言われています。
1831年に67歳で亡くなりますが、伝説の最期を遂げます。自分の遺体にこっそり花火を仕掛けておき、火葬された瞬間に夜空にドカンと花火が打ち上がって参列者の度肝を抜きました!「此世をば どりゃお暇に 線香の 煙とともに 灰(はい)さようなら」という辞世の句を残し、死ぬ間際まで人々を楽しませました。