1183年、北条義時の長男として生まれました。幼名は金剛。幼い頃から非常に賢く、初代将軍・源頼朝から「この子は将来、絶対に北条と幕府の屋台骨になる!」と激賞され、深い寵愛を受けて育ちました。元服の際にも頼朝から「頼」の一字を与えられ、最初は頼時(のちに泰時)と名乗りました。
父・義時が、有力御家人で「武士の鑑」と讃えられていた畠山重忠を謀反の罪を着せて討伐しようとした際、若き泰時は「重忠殿が裏切るはずがありません!明確な証拠もないのに討伐するなど間違っています!」と、冷酷な父に真っ向から猛反対し、強い正義感を見せました。
1221年、後鳥羽上皇が幕府討伐の兵を挙げた「承久の乱」において、泰時は幕府軍の総大将に任命されます。一刻も早く京都へ攻め上るため、なんと最初はわずか18騎の少人数で鎌倉を出陣!その圧倒的な覚悟と行動力に御家人たちが次々と合流し、道中で19万という超大軍に膨れ上がりました。
朝廷軍を打ち破って京都を制圧した後、泰時はそのまま京都に留まり、朝廷の監視と西国の武士を統括する新たな役所「六波羅探題(ろくはらたんだい)」を創設します。初代探題として、敗戦で混乱する京都の治安を見事に回復させ、優れた政治力と行政能力を発揮しました。
1224年に父・義時が急死すると、継母(伊賀の方)が自分の実の息子を次の執権にしようとするクーデター(伊賀氏の変)を企てます。しかし泰時は伯母・北条政子と協力し、力ではなく対話と説得によってこれを無血で鎮圧!一人の血も流すことなく、平和的に第3代執権に就任しました。
執権となった泰時は、祖父や父の時代のように身内だけで権力を独占する「独裁政治」の限界を悟ります。そこで1225年、幕府の有力な御家人や優秀な文官ら11名を集めた会議システム「評定衆(ひょうじょうしゅう)」を設置し、合議制(多数決)による民主的で公平な政治をスタートさせました。
1232年、日本史上初となる武士のためのオリジナル法律「御成敗式目(貞永式目)」全51ヶ条を制定しました。貴族の難解な法律(律令)ではなく、武士たちの間に昔からある常識や道徳(道理)をベースに作られたこの画期的な法律は、その後の日本の法律の基礎となりました。
式目の制定後、泰時は京都にいる弟の重時に宛てて手紙を書いています。「この法律は、難しい漢字が読めない武士でも裁判の基準が分かるように、私たちが大切にしてきた『道理』に基づいて作ったものです。決して京都の公家たちを見下すためのものではありません」と、その熱い思いを綴りました。
1230年頃、日本全国を「寛喜の飢饉」という大災害が襲います。泰時は御家人たちの贅沢を厳しく禁じ、自らの食事も減らし、米を無料で配るなど徹底的な救済措置を行いました。さらに、困窮して自分自身を売って奴隷(人身売買)になってしまった人々を保護するルールを作るなど、深い慈悲を見せました。
1242年、過労から赤痢を患い、60歳でこの世を去りました。彼が作り上げた「評定衆」による合議制と「御成敗式目」による公平な裁判制度は、その後約150年続く鎌倉幕府の絶対的な安定をもたらしました。身分や敵味方を超えて万人に慕われた、武士の時代を代表する最高の名君です。