1138年、伊豆国(静岡県)の地方豪族として生まれました。平治の乱で敗れ、罪人として伊豆へ流されてきた源頼朝の監視役を任されますが、この時はのちに彼が自分の運命を根底から変える存在になるとは夢にも思っていませんでした。
時政が京都へ大番役で赴任している間に、なんと長女の政子が監視対象である頼朝と恋に落ちてしまいます!平家の怒りを恐れて最初は猛反対した時政でしたが、2人の固い決意に折れ、最終的には腹を括って頼朝の最大の支援者となることを決意しました。
1180年、頼朝が平家打倒の挙兵をすると時政も一族を挙げて参戦。石橋山の戦いで大敗し、長男の宗時を失うという悲劇に見舞われますが、甲斐源氏の武田信義らと同盟を結ぶために奔走し、頼朝の勢力挽回と関東平定に多大な貢献を果たしました。
平家滅亡後、時政は京都守護に任じられ、朝廷との困難な交渉を担当します。「日本一の大天狗」と呼ばれた後白河法皇と堂々と渡り合い、諸国への「守護・地頭」の設置を認めさせるという、鎌倉幕府の軍事・警察権の根幹を築く歴史的な大功績を挙げました。
1199年に絶対的なカリスマであった頼朝が急死すると、若い第2代将軍・頼家の独裁を防ぐために「十三人の合議制」が敷かれます。時政は頼朝の舅(おじいちゃん)という立場を利用してこの合議制の筆頭格となり、徐々に幕府内での権力を強めていきました。
将軍・頼家の外戚として権勢を振るう比企能員を排除するため、1203年に自邸へ能員を呼び出してだまし討ちで暗殺!そのまま比企一族を滅亡させ、重病だった頼家を将軍の座から強引に引きずり下ろして伊豆へ幽閉してしまいました。
頼家に代わって、まだ12歳の幼い実朝を第3代将軍に立てます。時政は実朝を自らの邸宅に住まわせて完全にコントロールし、大江広元と並んで政所別当に就任。これが幕府の事実上のトップである「初代執権」の始まりとなりました。
権力欲に憑りつかれた時政は、後妻の牧の方の讒言を信じ、娘婿であり「武士の鑑」と慕われていた有力御家人・畠山重忠に謀反の罪を着せて討伐してしまいます。このあまりにも強引なやり方に、実の息子である義時や娘の政子も激しく反発し、親子間の溝は決定的なものになりました。
1205年、時政と牧の方は将軍・実朝を暗殺し、娘婿の平賀朝雅を新将軍にしようとするクーデター(牧氏事件)を企てます。しかし、完全に御家人たちの支持を失っていた時政は政子と義時によって阻止され、ついに出家させられて伊豆へと永久追放されてしまいました。
権力の絶頂から一転、罪人として生まれ故郷の伊豆に流された時政は、表舞台に二度と戻ることは許されませんでした。腫瘍を患いながら約10年間の孤独な隠居生活を送り、1215年に78歳でひっそりとこの世を去りました。因果応報の最期でした。