1224年、第2代執権・北条義時の孫(北条実泰の子)として誕生しました。武蔵国六浦荘金沢(現在の神奈川県横浜市金沢区)を本拠地としたため「金沢実時」とも呼ばれ、北条氏の有力な一門「金沢流北条氏」の祖となりました。
若くしてその才能を認められ、幕府の最高裁にあたる「引付衆」や、最高意思決定機関である「評定衆」などの要職を歴任。優れた実務能力と公平な判断力で、幕府の政治や裁判の中枢を担い、法と秩序の維持に尽力しました。
第5代執権である名君・北条時頼から絶大な信頼を寄せられました。時頼の病床にも付き添うほどの深い絆で結ばれており、幕府の安定と発展のために時頼の右腕(最強のブレーン)として辣腕を振るいました。
時頼の死後も、まだ若かった第8代執権・北条時宗を全力でサポートしました。モンゴル帝国(元)からの脅威が迫る緊迫した情勢の中で、時宗にとって最も頼りになる経験豊かな長老として幕府を支え続けました。
有能な政治家であると同時に、無類の「本好き」でもありました。政治や法律の参考書から、歴史、文学、仏教の経典に至るまで、日本や中国(宋)のあらゆる貴重な書物を情熱的に収集・書写し、巨大な知識の泉を築き上げました。
集めた膨大な書物を保管・公開するため、本拠地の金沢に武家としては日本初となる本格的な図書館「金沢文庫(かなざわぶんこ)」を創設しました。これは単なる個人の書斎を超えた、当時の最高レベルの学術研究センターでした。
単に本を集めるだけでなく、自ら筆を執って『群書治要』などの書物を熱心に書写(コピー)したり、京都から清原教隆などの一流の学者を招いて直接教えを乞うなど、まさに「文武両道」を地で行く最高の教養人でした。
彼の本拠地であった六浦(むつら)は、鎌倉の外港として機能する国際的な貿易港でした。ここを通じて中国(宋)からの最新の書物や禅宗の文化が次々と流入し、金沢文庫の充実を強く後押ししました。
熱心な仏教徒でもあり、金沢文庫に隣接する場所に一族の菩提寺として「称名寺(しょうみょうじ)」を建立しました。晩年はここで出家して仏道修行に励み、現在も称名寺と金沢文庫は一体となって鎌倉文化を伝えています。
1276年に53歳でこの世を去りますが、彼の「知」への情熱は、息子の顕時、曾孫の貞顕ら子孫に脈々と受け継がれました。彼らが守り抜いた金沢文庫の古文書群(国宝)は、現在も日本の歴史研究において絶対に欠かせない奇跡の宝物となっています。