1562年、尾張国(現在の愛知県名古屋市)で生まれました。母親が豊臣秀吉の生母・大政所と従姉妹(あるいは親戚)だった縁で、幼い頃から秀吉とその妻・ねねに預けられ、我が子のようにたっぷりと愛情を受けて育ちました。これが生涯にわたる秀吉への絶対的な忠誠心の原点となります。
1583年、秀吉と柴田勝家が激突した「賤ヶ岳の戦い」で、清正は敵の猛将を討ち取る大活躍を見せます!福島正則らと共に「賤ヶ岳の七本槍」の一人として天下にその名を轟かせ、一気に3000石もの領地を与えられる大出世を果たしました。
武勇だけでなく、城づくりの超一流の天才(築城名人)でもありました。彼が築いた熊本城や名古屋城などは、下は緩やかで上に向かって激しく反り返る「武者返し(清正流三日月石垣)」と呼ばれる特殊な石垣が特徴で、敵の侵入を完璧に防ぐ難攻不落の要塞でした。
豊臣秀吉の命による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に出陣した際、陣地を襲ってきた巨大な虎を愛用の「十文字槍」で退治したという勇ましい伝説が残っています。この時、虎に槍の片刃を噛み折られたため、以降は「片鎌槍(かたかまやり)」として愛用したと伝えられています。
最前線で命懸けで戦う清正ら「武断派」に対し、後方で兵站や報告を担当する石田三成ら「文治派」との間で深刻な対立が生じます。三成の報告によって秀吉から謹慎処分を受けたこともあり、清正の三成に対する怒りと憎悪は決定的なものとなってしまいました。
秀吉の死後、天下分け目の「関ヶ原の戦い」が勃発します。豊臣家への忠誠心は誰よりも強かった清正ですが、「憎き三成を討つ!」という強い思いから、苦渋の決断で徳川家康率いる東軍に味方し、九州で西軍勢力と激しく戦いました。
戦に強いだけではありません!肥後(熊本県)の領主として、暴れ川の治水工事や新田開発などを積極的に行い、領民の生活を大いに豊かにしました。その卓越した政治手腕と領民への愛情から、熊本の人々には今でも「清正公(せいしょこ)さん」と呼ばれ神様のように慕われています。
天下人となった徳川家康が、豊臣秀頼を京都の二条城に呼びつけます。家康の罠(暗殺)を恐れた清正は、自ら短刀を懐に忍ばせ、命懸けで秀頼の護衛に付き添いました。家康の前でも一歩も引かず、秀吉の忘れ形見を立派に守り抜いた熱き忠誠心を見せつけました。
二条城の会見で秀頼を無事に大坂城へ送り届けた直後、熊本へ帰る船の中で突然発病し、そのまま49歳で急死してしまいます。あまりにもタイミングが良かったため、「豊臣家の守護神である清正を邪魔に思った家康に毒殺されたのではないか」という噂がまことしやかに囁かれました。
清正の死から約260年後、幕末の「西南戦争」で西郷隆盛率いる薩摩軍が熊本城を包囲しますが、清正が築いた「武者返し」の石垣をどうしても越えられず敗退。西郷に「私は官軍に負けたのではない、清正公に負けたのだ」と言わしめ、彼の遺した築城術の凄さを後世に証明しました。