1723年、江戸の福岡藩邸で生まれました。幼くして両親を亡くしたため、伯父で豊前国中津藩(大分県)の藩医であった宮田全沢に引き取られます。養父の厳しい教育を受けながら医学を学び、やがて中津藩の藩医としての道を歩み始めました。
オランダ医学に興味を持った良沢は、なんと40歳を過ぎてから、蘭学のパイオニアである青木昆陽(甘藷先生)の門を叩きます!当時の40歳といえば立派な初老ですが、年齢など気にせず、年下の若者たちに混ざって貪欲にオランダ語の基礎を学びました。
彼の情熱は藩主・奥平昌鹿(おくだいら まさか)の心を動かし、長崎へのオランダ留学を許されます。長崎ではオランダ通詞(通訳)から直接語学を学び、さらにオランダの解剖書『ターヘル・アナトミア』を大金をはたいて購入!これが後の日本の歴史を変えることになります。
1771年、江戸の小塚原刑場で死体の解剖(腑分け)を見学します。同じく蘭方医の杉田玄白らと共に、持参した『ターヘル・アナトミア』と実際の内臓を見比べた良沢たちは、その図のあまりの正確さに「今まで我々は何をしていたんだ!」と雷に打たれたような衝撃を受けました。
「この本を翻訳しよう!」と決意した彼らですが、当時はオランダ語の辞書すらありませんでした。翻訳メンバーの中で唯一オランダ語の単語や文法を知っていた良沢が事実上のリーダー(主幹)となり、「眉毛」という単語一つに丸一日悩むような、暗号解読のような翻訳作業を引っ張りました。
良沢は極めてストイックな完璧主義者でした。「人間の命に関わる医学書なのだから、一文字でも間違った翻訳をして世に出すわけにはいかない!」と、少しでも意味が不明な箇所があれば徹底的に考え抜き、決して妥協を許さない厳しい職人魂を持っていました。
約4年の歳月を経てついに翻訳が完成に近づきますが、プロデューサー気質の玄白が「早く世に出そう!」と言ったのに対し、良沢は「まだ不完全だ!」と出版に猛反対します。結果として本は出版されましたが、良沢は「自分の名を出さないこと」を条件とし、歴史的大偉業の著者に彼の名はありませんでした。
名誉やお金には一切興味を示さず、ひたすらオランダ語の研究に没頭する良沢を見て、主君の奥平昌鹿は呆れるどころか大絶賛!「お前はオランダ学問の化け物だ!」と敬意を込めて「蘭化(らんか)」という号(ニックネーム)を授けました。良沢自身もこの名を大層気に入っていたそうです。
名前を巡って意見は対立しましたが、玄白と良沢の友情は生涯続きました。社交的で名医として大成功した玄白に対し、良沢は出世を断って長屋で貧乏暮らしをしながら翻訳に没頭するという、まるで光と影のように対照的でありながら、互いを深く尊敬し合う関係でした。
『解体新書』の後も、ロシア語の学習やオランダ語の翻訳を黙々と続け、1803年に81歳でこの世を去りました。彼の業績は当時世間に広く知られることはありませんでしたが、晩年の杉田玄白が著書『蘭学事始』の中で「あの翻訳が成功したのは、全て良沢の力である」と最大限の賛辞を贈り、その偉大さを後世に伝えました。