1539年、尾張国(愛知県)で生まれました。幼名は犬千代。若い頃は派手な格好をして町を練り歩く「傾奇者(かぶきもの)」、いわゆる不良ヤンキーでした!しかし腕っぷしは超一流で、織田信長の親衛隊である「赤母衣衆(あかほろしゅう)」の筆頭に抜擢されます。六尺(約180cm)を超える長身で、派手な長い槍を振り回す姿から「槍の又左(やりのまたざ)」と呼ばれて敵から恐れられました。
順調に出世していた利家ですが、21歳の時に大事件を起こします。信長のお気に入りだった茶坊主(お世話係)が利家の妻の装飾品を盗んだことに激怒し、なんと信長の目の前でその茶坊主を斬り殺してしまったのです!これに信長はガチギレし、利家は織田家をクビ(出仕停止)になってしまいます。ここから約2年間、給料もなく命を狙われる過酷な浪人(ホームレス)生活を送ることになりました。
「なんとかして信長様にお許しをもらいたい…!」と考えた利家は、勝手に織田軍の戦(桶狭間の戦いなど)に参加し、敵の首を取って信長に差し出すという危険なアピールを繰り返します。森部の戦いでは「首取り足立」と恐れられた猛将を討ち取る大金星を挙げ、その必死な努力と忠誠心がようやく認められ、涙の帰参(復職)を果たしました。
利家を語る上で絶対に欠かせないのが、正室(奥さん)の「まつ(芳春院)」です。利家とは従兄妹同士で、利家がクビになって極貧生活を送っていた時も、内職をして懸命に夫を支えました。とても賢く、のちに秀吉の妻・ねねとも親友になり、豊臣政権下での前田家の地位をガッチリ固めるなど、「加賀百万石はまつの力でできた」と言われるほどのスーパー奥様でした!夫婦仲も非常に良く、たくさんの子供に恵まれました。
利家と豊臣秀吉は、織田信長のもとで働く同僚として若い頃から大の仲良しでした。家が近所で、秀吉とねねの夫婦が喧嘩すると、利家とまつが間に入って仲裁したというアットホームなエピソードも残っています。身分の低い秀吉が信長から冷遇されていた時も、利家は決してバカにせず対等に付き合いました。この深い友情が、のちの歴史を大きく動かす絆となります。
信長が勢力を拡大すると、利家は北陸地方の総司令官となった猛将・柴田勝家(しばた かついえ)の部下(与力)として配属されます。勝家は非常に厳格な人物でしたが、利家の実力を高く評価し、息子のように可愛がりました。利家も勝家を「親父殿」と慕い、上杉家の一揆軍などと激しい戦いを繰り広げ、能登国(石川県)を与えられて立派な大名へと成長していきます。
1582年の本能寺の変の後、織田家の後継者をめぐって、親友の「秀吉」と恩人の「勝家」が対立してしまいます。これが1583年の「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」です。利家は勝家軍として出陣しますが、大親友の秀吉と本気で戦うことがどうしてもできず、戦いの途中で戦線を離脱して撤退してしまいます。義理と人情の板挟みになった、利家最大の苦悩の決断でした。
賤ヶ岳の戦いの後、利家は秀吉の家臣として仕えることになります。秀吉は利家を大いに頼りにし、加賀国(石川県)などを与えて大々名へと引き上げました。豊臣政権下では、徳川家康と並ぶトップクラスの役職である「五大老(ごたいろう)」に任命されます。秀吉の息子・秀頼(ひでより)の教育係も任されるなど、政権のナンバー2として絶大な信頼と権力を手に入れました。
若い頃は派手なヤンキーだった利家ですが、実はものすごくお金に細かい「超ドケチ」な一面がありました!浪人時代の貧しい経験からお金の大切さを骨の髄まで理解しており、暇さえあれば自ら算盤(そろばん)を弾いて家計をチェックしていました。しかし、ただのケチではなく、「普段は節約し、いざという戦の時には惜しみなく部下に金を配る」という、真の経済観念を持った優れた経営者でもあったのです。
秀吉が亡くなった後、豊臣家を乗っ取ろうとする徳川家康に対し、利家は毅然とした態度で立ちはだかりました。家康も、武勇と人望を兼ね備えた利家がいる間は手出しができませんでした。しかし1599年、秀吉の後を追うように病気でこの世を去ります(享年61)。彼が遺した強固な基盤と、妻・まつの必死の交渉により、前田家は江戸時代を通じて最大の藩である「加賀百万石」として奇跡的に生き残り、大繁栄を遂げたのです。