1835年、越後国(新潟県上越市)の豪農の家に生まれました。幼少期から非常に優秀で、江戸に出て医学や蘭学(オランダ語)、さらには英語や機関学など、西洋の最先端の学問を貪欲に吸収し、時代の先を読む力を養いました。
幕末の1866年、将軍・徳川慶喜に対して「国民の識字率を上げ、教育を普及させるためには、難解な漢字を廃止して『ひらがな』だけにすべきだ!」という超大胆な『漢字御廃止之議』を建白。彼の教育への熱い思いと先見性が光るエピソードです。
明治新政府が誕生すると、その圧倒的な実務能力と知識が渋沢栄一の目に留まり、政府(民部省)にスカウトされます。さらに最高実力者である大久保利通からも絶大な信頼を得て、「前島密」と改名し、近代国家建設の最前線に立つことになりました。
最大の功績が「郵便制度」の創設です!それまでの「飛脚」は値段が高く時間もかかりましたが、彼は「距離に関係なく全国一律の安い料金で届ける」という画期的なシステムを考案。「郵便」「切手」「葉書」というお馴染みの言葉も彼が名付け親です。
郵便制度を立ち上げた直後、鉄道建設の資金交渉のためにイギリスへ出張します。そこで実際に世界最先端のイギリスの郵便局の仕組みや、郵便事業を通じたネットワークの威力を目の当たりにし、日本の郵便制度をさらに発展させるための強烈なインスピレーションを得ました。
手紙を運ぶだけでなく、全国津々浦々にできた郵便局のネットワークを活用して「郵便貯金(郵貯)」の制度も創設しました。庶民から少額の資金を集め、それを元手に国のインフラ整備(鉄道や産業)を進めるという、まさに国家の血流を創り上げた大発明でした。
郵便だけでなく、交通インフラの整備にも奔走しました。江戸への遷都(東京奠都)を強く主張して国家の拠点を定めたほか、海運会社を設立して三菱の岩崎弥太郎と激しい競争を繰り広げ、さらに鉄道や電信網の敷設など、近代日本の土台を爆速で作り上げました。
郵便網を使って安く素早く情報を届けるため、『郵便報知新聞(のちの報知新聞)』の発行を支援し、メディアの発展に貢献。さらに、盟友・大隈重信の「東京専門学校(現在の早稲田大学)」の創設に深く関わり、自ら校長を務めるなど、教育にも情熱を注ぎました。
彼の肖像画は、1951年(昭和26年)から現在に至るまで、ずっと「1円切手」のデザインとして使われ続けています。どれだけ時代が変わっても、「郵便の基礎を築いた偉人を忘れないように」という日本郵便の深いリスペクトの証です。
晩年は政府の第一線を退き、さらに視力を失って盲目となってしまいますが、決して情熱を失うことはありませんでした。口述筆記によって自身の回顧録を残し、日本の将来を案じながら、1919年に85歳で大往生を遂げました。まさにインフラに人生を捧げた偉人です。