1570年頃に生まれたと推測されていますが、詳しい生い立ちや生没年は全くの謎に包まれています。京都で「俵屋」という絵屋(扇子や屏風などに絵を描いて売る高級デザイン工房)を主宰する町絵師として活動し、当時から「俵屋の絵は素晴らしい」と世間の評判を呼んでいました。
町絵師であった宗達の才能をいち早く見抜いたのが、刀剣の鑑定家であり、書や陶芸などあらゆる芸術に精通する文化界のスーパープロデューサー・本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ)でした。二人は親戚関係にあったとも言われ、光悦の引き立てによって宗達は一流の文化人たちのネットワークへと入っていきます。
光悦と宗達の最強タッグが生み出した奇跡の傑作が『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』です。宗達が金や銀の泥で何羽もの美しい鶴がリズミカルに飛び立つ姿を描き、その上に光悦が流麗な筆致で和歌を書くという、日本美術史に残る究極のコラボレーション作品でした。
宗達の代名詞とも言えるのが「たらし込み」という革命的な水墨画の技法です!墨や絵の具を塗って、それがまだ乾ききらないうちに別の色や水滴を垂らし、偶然にできる複雑で美しい滲み(にじみ)の模様を表現に取り入れるという、当時としては誰も思いつかない斬新なテクニックでした。
1602年、大きな転機が訪れます。厳島神社(広島県)にある、平清盛が奉納した国宝の経典『平家納経』の修復という、国家的で名誉ある大プロジェクトに抜擢されたのです!この時、古い時代の優美な絵画(大和絵)を直接深く研究したことが、その後の宗達の作風に多大な影響を与えました。
宗達の実力は、ついに朝廷の耳にも届きます。京都の養源院にある杉戸絵(白象や唐獅子の絵)などの見事な仕事ぶりが高く評価され、1630年頃に朝廷から「法橋(ほっきょう)」という非常に高い位を与えられました。ただの町絵師(商人)がこのような名誉ある称号を手にするのは、極めて異例の超大出世でした。
晩年に描かれたとされるのが、日本美術史に燦然と輝く最高傑作にして国宝『風神雷神図屏風』です!金箔が張られた巨大な空間の両端に、天空から駆け下りる風神と雷神をダイナミックに配置。中央をあえて大きく余白にするという天才的な構図で、神々の圧倒的な躍動感を見事に表現しました。
もう一つの代表作『松島図屏風』も驚異的です。荒波の中に浮かぶ岩と島という伝統的なテーマを描いていますが、波の形や色彩の配置があまりにもリズミカルで抽象的であり、まるで現代のグラフィックデザインを見ているかのような、時代を何百年も先取りしたモダンな感覚に満ちています。
数々の大傑作を残した宗達ですが、いつ、どこで、どのように亡くなったのかは現在でもはっきり分かっていません。1640年〜1643年頃にこの世を去ったと推測されていますが、その私生活も最期も一切語らず、ただ圧倒的な作品だけを歴史に刻み込んで姿を消したミステリアスな存在です。
宗達の死から約100年後、京都に生まれた天才絵師・尾形光琳(おがた こうりん)が宗達の『風神雷神図屏風』に強烈なショックを受け、その絵を模写して彼の手法を熱狂的に受け継ぎました。直接の師弟関係がなくても、時代を超えて魂で受け継がれていくこの芸術の系譜こそが、日本が世界に誇る「琳派」なのです!