1567年、出羽国(山形県)の米沢城で伊達家の長男(幼名:梵天丸)として誕生します。しかし5歳の時、天然痘(てんねんとう)という恐ろしい病気にかかり、右目の視力を完全に失ってしまいました。片目が見えないコンプレックスから、最初は内気で引きこもりがちな少年でしたが、優秀な教育係である虎哉宗乙(こさい そういつ)や、生涯の右腕となる片倉小十郎(かたくら こじゅうろう)たちの厳しい指導と温かい励ましにより、次第にたくましい武将へと成長していきます。
18歳で父の輝宗(てるむね)から家督を譲り受け、伊達家のトップに立ちます。ここからの政宗の快進撃は止まりません!「自分の実力で天下を取る!」と野心を燃やし、周辺の大名たちを次々と激しい力技でねじ伏せていきます。その容赦ない戦いぶりと、隻眼(片目)で戦場を駆ける恐ろしい姿から、中国の伝説の英雄になぞらえて「独眼竜(どくがんりゅう)」という異名で呼ばれ、東北地方中にその名を轟かせました。
領地を急激に広げる政宗に対し、危機感を抱いた周辺の大名たちが一斉に反発します。そんな中、和睦(仲直り)の挨拶に来たはずの敵将・二本松義継(にほんまつ よしつぐ)が、なんと政宗の父である輝宗を人質にして逃亡するという大事件が起きました!政宗は軍勢を率いて追いつきますが、「私ごと敵を撃て!」という父の叫びを聞き、涙を飲んで敵ごと一斉射撃を行いました。この悲劇を乗り越え、政宗は奥州(東北地方)の覇者へと突き進みます。
政宗が東北で大暴れしている頃、西日本では豊臣秀吉が天下統一を目前にしていました。秀吉は「小田原(神奈川県)の北条氏を倒すから、全国の大名は手伝いに来い!」と命令を出します。政宗はギリギリまで迷い、大遅刻してしまいました。激怒する秀吉の前に、政宗はなんと死を覚悟した「白装束(死装束)」の姿で現れます!このド派手な命がけのパフォーマンスに秀吉は思わず笑って許し、政宗は絶体絶命のピンチを切り抜けました。
秀吉の家臣となった後も、政宗の「見せ方(演出)」のセンスは抜群でした。朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に向かうため京都を行進した際、政宗の軍勢はヒョウ柄やトラ柄の豪華絢爛な甲冑(鎧)を着て、驚くほどド派手なパレードを行いました。これを見た京都の人々は「なんてカッコいいんだ!」と大熱狂!この出来事から、オシャレで派手な服装を好む人のことを「伊達者(だてもの)」と呼ぶようになったと言われています。
秀吉の死後、1600年の関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍に味方します。家康から「勝ったら領地をドカンと増やして、百万石の大名にしてやる!(百万石のお墨付き)」と約束され、東北地方で上杉軍と激しく戦いました。しかし、裏で一揆(反乱)をあおって自分の領地をさらに広げようとしていたことが家康にバレてしまい、約束の百万石はもらえませんでした。天下取りの夢は、ここで完全に絶たれることになります。
天下取りを諦めた政宗は、平和な世の中での国づくりに全力を注ぐようになります。現在の宮城県に「仙台城(青葉城)」を築き、巨大な城下町を建設しました。さらに、北上川の洪水を防ぐための大規模な工事を行ったり、新しい田んぼをどんどん開拓したりと、超一流のプロデューサーとして大活躍!仙台藩を、江戸(東京)に大量のお米を送るほどの、日本屈指の豊かで巨大な藩へと育て上げました。
政宗の目は日本国内だけでなく、なんと世界にも向けられていました!1613年、スペイン(ヨーロッパ)との直接貿易を夢見て、家臣の支倉常長(はせくら つねなが)をリーダーとする慶長遣欧使節(けいちょうけんおうしせつ)をヨーロッパへ派遣します。彼らは太平洋と大西洋を渡り、ローマ教皇にも謁見するという壮大な旅を成し遂げました。貿易自体は幕府のキリスト教禁止によって失敗しますが、政宗のスケールの大きさがわかる歴史的事件です。
実は政宗は、歴史に名を残すほどの「料理大好き武将(グルメ)」でもありました!「お客様をもてなす時は、自分が直接料理を作って出すのが本当の礼儀だ」という言葉を残しており、凍り豆腐(高野豆腐)や納豆の研究、さらには「ずんだ餅」の考案者であるという伝説まであります。戦がない平和な時代には、料理や和歌、茶道など、様々な文化を心から楽しむ風流な教養人としての顔を持っていました。
晩年の政宗は、徳川幕府の第3代将軍・徳川家光(とくがわ いえみつ)から「伊達の親父殿」と呼ばれるほど深く尊敬され、幕府のご意見番(長老)として頼りにされました。天下取りの野望を胸に秘めながらも、時代に合わせて生き方を変え、仙台の繁栄を築き上げたカリスマ武将は、1636年に江戸で静かに息を引き取ります(享年70)。彼の遺体は、両目が開いた立派な木像と共に、美しい瑞鳳殿(ずいほうでん)に眠っています。