戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した、堺の超大物豪商です!千利休・津田宗及と並び称される「天下の三茶頭」の一人で、織田信長や豊臣秀吉という天下人の茶頭(お茶の先生・政治顧問)を務めました。信長にいち早く接近して堺の町を戦火から守っただけでなく、生野銀山の経営権や鉄砲の利権を独占するなど、歴史を裏から操った最強の「政商」としての顔も持っていた、戦国経済のフィクサーです。
1520年、近江国(現在の滋賀県)の武士の家系に生まれますが、若くして商業が盛んな町・堺へ移り住みます。そこで倉庫業や貿易で稼ぐ有力な商人「納屋衆(なやしゅう)」である今井家の養子となり、本格的に商人としてのキャリアをスタートさせました。この決断が、後の戦国日本を動かす大きな転機となりました。
当時、堺で最高峰の茶人として尊敬を集めていた武野紹鴎(たけの じょうおう)に弟子入りし、お茶の奥義を極めました。その圧倒的なセンスを高く評価された宗久は、なんと紹鴎の娘を奥さんに迎え、婿養子(親族)として認められます。この時に数々の名物茶道具を譲り受けたことが、後の信長や秀吉との深い関係を作るきっかけとなりました。
1568年、足利義昭を連れて京都へ向かっていた織田信長が、堺の町に多額の軍用金を要求します。堺の他の豪商たちが反抗する中、宗久はいち早く信長に謁見(面会)し、家宝の名物茶道具を献上しました。この「空気を読んだ」素早い立ち回りに信長は大喜び!一気に信長の信頼を勝ち取りました。
信長の圧倒的な軍事力を前に、堺の町が戦火で焼き払われる危機が迫りました。宗久は幕府や守護、そして堺の自治組織(会合衆)の間に入って必死に交渉!堺を平和的に信長へ降伏させることで、町の破滅を防ぎ、自治の権利をなんとか守り抜きました。この交渉力こそが、宗久が単なる商人ではないと言われる所以(ゆえん)です。
信長のお気に入りとなった宗久は、ついに「茶頭」に就任。それだけでなく、但馬国の生野銀山の経営権、鉄砲の製造・販売権、淀川を通る船から税金を集める権利など、国家的レベルの超重要利権を次々と独占しました。商売で稼ぐだけでなく、政治にも深く関わる「政商(せいしょう)」として、莫大な富を築き上げたのです。
1582年、本能寺の変で信長が亡くなると、宗久は即座に動き出します。天下人の候補として頭角を現した豊臣秀吉にいち早くアプローチし、自らの地位と利権を守るために素早く秀吉の陣営に臣従しました。この「次の天下人を正確に見抜く眼力」こそが、宗久が生き残れた最大の秘訣です。
信長の時代に引き続き、秀吉の時代でも「茶頭」に任命されます!千利休、津田宗及(つだ そうきゅう)と並んで「天下の三茶頭」と称されるほどの存在になり、大坂城や聚楽第で開かれる最高格式の茶会を何度も主導しました。秀吉の政治を彩る、欠かせない人物となったのです。
1587年の「北野大茶湯」において、宗久は秀吉から特別に許可を得て、なんと「黄金の茶室」に負けないほど豪華な装飾を自身の茶室に施しました。天下人である秀吉の茶会において、自らの圧倒的な富と権勢を世間に大きくアピールしたのです。その自信たっぷりの姿は、まさに戦国豪商の王様そのものでした。
同じ堺の出身で、茶頭仲間である千利休とは深く親交を結びました。しかし、お茶の湯のリーダーシップを巡るライバル関係でもあり、ビジネスの利権を巡っても互いにしのぎを削る関係でした。二人はお互いをライバルとして切磋琢磨(せっさたくま)しながら、戦国時代の「お茶文化」を最強のレベルにまで引き上げたのです。
秀吉によって堺の堀は埋められ、直轄地化されるなどして、かつての自由都市・堺の繁栄は失われていきました。そんな中、1593年に74歳でその生涯を閉じます。戦国時代の経済を動かし、天下人に深く食い込んだ巨頭の死は、一つの時代の終わりを告げるような出来事でした。