1815年、近江国(滋賀県)の彦根藩主の14男として誕生しました。14番目の男の子ということで、お殿様になる可能性はほぼゼロ!「一生、部屋住み(親のすねかじり)で終わるんだろうな…」と誰からも期待されない、とても地味な日陰の存在として青春時代をスタートさせました。
彼は自分を「花の咲かない埋もれ木」に例え、住んでいた家を「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けました。しかし、決して腐ることはありません!この日陰の15年間で、武術だけでなく、禅や国学、さらには茶道(お茶の湯)を極め、なんと自分でお茶の流派を作ってしまうほどの超一流の文化人に成長したのです。
13人いたお兄さんたちが次々と亡くなったり、他の家に養子に行ったりするという奇跡的な偶然が重なります。なんと、全く期待されていなかった14男坊の直弼が、彦根藩35万石のトップ(お殿様)に大抜擢されたのです!長年の厳しい勉強と修行で鍛え上げられた才能が、ついに表舞台で花開く時が来ました。
彼がお殿様になってすぐ、アメリカからペリーが黒船でやって来ました。圧倒的な武力を見せつけられ、「国を開け!」と迫られる江戸幕府は大パニックに陥ります。「このままでは日本が外国に飲み込まれてしまう…」。日本中が大混乱する中、優秀な直弼は幕府の中心で重要な役割を任されるようになります。
1858年、日本が最大の危機を迎える中、直弼は幕府の最高責任者である大老(たいろう)という超エリート職に就任します。将軍の次に偉い、政治のトップです!「日陰の14男坊」から、なんと日本を動かす絶対的なリーダーへと、歴史上でも類を見ないほどの大出世を成し遂げました。
大老になった直弼が直面したのが、アメリカからの強力な貿易の要求でした。「今、戦争をしたら絶対に日本は負ける!」と判断した彼は、天皇の許可(勅許)をもらえないまま、独断で日米修好通商条約にサインしてしまいます。日本の安全を守るための苦渋の決断でしたが、これが大きな波紋を呼ぶことになります。
さらに幕府では、病弱だった第13代将軍の「次の将軍を誰にするか」という大問題が起きていました。直弼は血筋を重視して徳川慶福(のちの家茂)を推し、優秀な徳川慶喜を推すグループと激しく対立します。直弼は持ち前の強引さでこの争いに勝利し、幕府の権力を完全に自分に集中させました。
勝手に条約を結び、跡継ぎ問題も強引に決めた直弼に対し、全国の武士や公家たちから「大老のやり方は間違っている!」と大ブーイングが起きます。これに対し、直弼は反対派を徹底的に逮捕し、処刑するという恐ろしい弾圧を行いました。これがテストに絶対出る安政の大獄(あんせいのたいごく)です。
安政の大獄で、吉田松陰(よしだ しょういん)などの超優秀な若者たちまでもが容赦なく処刑されました。反対する者は絶対に許さないその冷酷で恐ろしい姿から、直弼は「井伊の赤鬼」と呼ばれて恐れられるようになります。しかし、この強引すぎるやり方が、人々の心に激しい恨みの炎を燃え上がらせてしまいました。
1860年3月3日、季節外れの大雪が降る朝。江戸城の門に向かっていた直弼の行列が、恨みを持った水戸藩などの武士たちに突然襲撃されます。これが歴史を揺るがした大事件、桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)です。幕府の最高権力者である大老が暗殺されたことで幕府の権威は地に落ち、時代は一気に明治維新へと加速していきました。