614年、朝廷の神事(祭祀)を代々担当する名門・中臣氏の家に生まれました。幼い頃から大変賢く、神道だけでなく、中国(隋や唐)から伝わった最先端の儒教や仏教、歴史書などを熱心に学びました。特に中国の軍学書である「六韜(りくとう)」を暗記するほど読み込んでおり、この並外れた知性が、のちに国家のシステムを大改造するための強力な武器となります。
当時、朝廷のトップに君臨していたのは蘇我蝦夷(そが の えみし)と蘇我入鹿(そが の いるか)の親子でした。彼らは天皇を差し置いて自分たちの巨大な墓(陵)を作ったり、有力な皇族である山背大兄王(やましろのおおえのおう)を滅ぼしたりと、やりたい放題でした。「このままでは国が乗っ取られ、日本がダメになってしまう!」と、鎌足は強い危機感と怒りを抱くようになります。
蘇我氏を倒すため、鎌足は協力してくれる優秀な皇族を探していました。そんなある日、法興寺(飛鳥寺)で行われた「蹴鞠(けまり)」のイベントで、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の靴が脱げて飛んでいってしまいます。鎌足はすかさずその靴を拾い上げ、うやうやしく差し出しました。このドラマチックな出来事をキッカケに、二人は急接近し、固い絆で結ばれることになります。
鎌足と中大兄皇子は、周囲に怪しまれないように、唐から帰国した優秀な学者・南淵請安(みなぶち の しょうあん)の私塾へ一緒に通い始めます。二人は儒教の教えを学ぶフリをしながら、塾へ行き来する道中で「どうやって蘇我入鹿を暗殺するか」「その後の新しい国づくりをどうするか」という極秘のクーデター計画を、何ヶ月もかけて密かに練り上げていきました。
645年、ついに計画を実行に移す時が来ました!儀式の最中、スキを突いて中大兄皇子らが蘇我入鹿に斬りかかります。これが歴史に名高い「乙巳の変(いっしのへん)」です。鎌足も自ら弓矢を持って武装し、中大兄皇子を全力でサポートしました。入鹿が倒れたと知った父の蝦夷も自害し、長年朝廷を牛耳っていた蘇我氏の本流は、あっけなく滅亡したのです。
蘇我氏を倒した後、新しい政治体制がスタートします。鎌足は最大の功労者でしたが、いきなりトップの役職に就くことは辞退し、「内臣(うちつおみ)」という天皇の側近(アドバイザー)のポジションにつきました。表立って権力を振りかざすのではなく、あくまで黒衣(裏方)として中大兄皇子を支え続けるという、彼の賢さと謙虚さが表れているエピソードです。
鎌足と中大兄皇子は、天皇を中心とした強い国を作るため、「大化の改新」と呼ばれる大規模な政治改革を次々と打ち出します。豪族が個人的に持っていた土地や人々をすべて国のものにする「公地公民(こうちこうみん)」の制度や、戸籍を作って税金を納めさせるシステムなど、中国(唐)の進んだ法律を取り入れ、日本を近代的な法治国家へと大きく前進させました。
663年、日本は朝鮮半島の百済を助けるために兵を送りますが、「白村江(はくすきのえ)の戦い」で唐・新羅の連合軍に歴史的な大惨敗を喫してしまいます。「唐が日本に攻めてくるかもしれない!」という絶体絶命の危機の中、鎌足は中大兄皇子(天智天皇)を全力で支え、水城(みずき)という防衛施設を作ったり、都を内陸の近江大津宮に移したりと、国防の強化に奔走しました。
晩年の鎌足は、国のルールブックである「近江令(おうみりょう)」という法律の作成に中心となって取り組んだと言われています。これは日本で最初の法律集とされており、この基礎があったからこそ、のちに息子の藤原不比等(ふひと)が完成させる大宝律令へと繋がっていきます。鎌足は武力によるクーデターだけでなく、法整備という超高度な実務能力も兼ね備えていたのです。
669年、国のために働き続けた鎌足はついに重い病に倒れます。天智天皇は自ら鎌足の家をお見舞いに訪れ、涙を流して悲しみました。そして、彼の多大なる功績を讃え、臣下として最高ランクの「大織冠(たいしょくかん)」という位と、「藤原」という新しい姓を与えました。鎌足の死後、この「藤原氏」は息子の不比等たちに受け継がれ、平安時代に絶対的な権力を握る大一族へと発展していくのです。