1847年、土佐藩(高知県)の足軽の家に生まれました。幼い頃から大変優秀で、藩の藩校「致道館」で儒学を学びつつ、長崎へ遊学してフランス語を猛勉強!のちに同郷の英雄である坂本龍馬とも交流があったとされています。
1871年、明治政府の巨大プロジェクトである岩倉使節団に留学生として同行し、念願のフランス留学を果たします。そこでルソーなどの啓蒙思想や自由・平等の精神に触れ、西洋の進んだ民主主義に雷に打たれたような衝撃を受けました。
帰国後の1882年、ルソーの『社会契約論』を流麗な漢文体で翻訳した『民約訳解(みんやくやっかい)』を出版します。この本は当時の自由民権運動のバイブル(教科書)となり、彼は「東洋のルソー」と称賛されました。
東京にフランス学の私塾「仏学塾」を開設し、多くの若者たちに学問と自由の精神を熱く教えました。ここから、のちに社会主義運動のリーダーとなる幸徳秋水(こうとくしゅうすい)など、時代を動かす優秀な人材が育っていきました。
1881年、自由民権を主張する『東洋自由新聞』を創刊!なんと社長にはフランス留学時代の親友で公家の西園寺公望(のちの総理大臣)を迎えました。しかし、急進的な内容を恐れた政府からの強烈な圧力により、西園寺は辞任に追い込まれてしまいます。
政府への痛烈な批判を続けたため、1887年に政府が制定した反体制派を弾圧する法律「保安条例」によって、危険人物とみなされて東京からの退去を命じられてしまいます。しかし彼は屈することなく、大阪へ移ってジャーナリスト活動を続けました。
1890年、ついに日本初の国政選挙(第1回衆議院議員総選挙)が実施されると、大阪から出馬して見事当選を果たします!民衆の期待を一身に背負い、帝国議会の場で自由と権利のために戦うはずでした。
しかし、議会では政府と野党(自由党)が裏で妥協し、予算案が通ってしまいます。信念を曲げる政治の腐敗に激怒した兆民は、「こんな議員どもは血の通っていない無血の虫だ!」と言い放ち、あっさりと自ら議員を辞職してしまいました!
政治家を辞めた後は「これからは経済の時代だ!」と実業家に転身します。北海道での山林事業や鉄道事業など様々なビジネスに手を出しますが、お人好しな性格もあってことごとく失敗。多額の借金を背負う苦労人な一面もありました。
1901年、54歳の時に喉頭がんで「余命1年半」と宣告されます。しかし彼は全く動じず、声を失いながらも死の直前までペンを握り続け、遺著となる『一年有半』と『続一年有半』を執筆!ベストセラーとなり、最後まで反骨精神を貫いてこの世を去りました。