中江 兆民 なかえ ちょうみん

1847年 - 1901年 明治時代
生没年月日: 弘化4年11月1日(1847年12月8日) 〜 明治34年(1901年)12月13日
出身: 土佐国(高知県高知市) 思想家、ジャーナリスト、政治家
フランスの思想家ルソーの『社会契約論』を翻訳し、「東洋のルソー」と呼ばれた明治時代を代表する思想家にして熱血ジャーナリストです!土佐藩(高知県)に生まれ、岩倉使節団と共にフランスへ留学。そこで自由と平等の思想に雷に打たれたような衝撃を受けます。帰国後、ルソーの思想を美しい漢文で訳した『民約訳解(みんやくやっかい)』を出版し、当時の「自由民権運動」に絶大な理論的支柱を与えました。私塾「仏学塾」で若者を育て、自らも『東洋自由新聞』を創刊して政府の専制政治を鋭く批判!第1回衆議院議員総選挙で見事当選を果たしますが、政府と妥協する野党の腐敗に激怒し、「こんな奴らは無血の虫(血の通っていない虫ケラ)だ!」と言い放ち、あっさりと議員を辞職してしまうというロックな生き様を見せます。その後は実業家に転身するも失敗続き。晩年に喉頭がんで「余命1年半」と宣告されますが、死の直前までペンを握り続け、ベストセラー『一年有半(いちねんゆうはん)』を執筆。徹底した唯物論者として死の恐怖すらも笑い飛ばした、最高に不屈の反骨精神を持つ天才思想家のストーリーです!
スポンサーリンク
👶

土佐藩の下級武士の家に誕生

1847年、土佐藩(高知県)の足軽の家に生まれました。幼い頃から大変優秀で、藩の藩校「致道館」で儒学を学びつつ、長崎へ遊学してフランス語を猛勉強!のちに同郷の英雄である坂本龍馬とも交流があったとされています。
🚢

岩倉使節団とフランス留学

1871年、明治政府の巨大プロジェクトである岩倉使節団に留学生として同行し、念願のフランス留学を果たします。そこでルソーなどの啓蒙思想や自由・平等の精神に触れ、西洋の進んだ民主主義に雷に打たれたような衝撃を受けました。
📖

東洋のルソー!『民約訳解』の出版

帰国後の1882年、ルソーの『社会契約論』を流麗な漢文体で翻訳した『民約訳解(みんやくやっかい)』を出版します。この本は当時の自由民権運動のバイブル(教科書)となり、彼は「東洋のルソー」と称賛されました。
🏫

「仏学塾」で若きエリートを育成

東京にフランス学の私塾「仏学塾」を開設し、多くの若者たちに学問と自由の精神を熱く教えました。ここから、のちに社会主義運動のリーダーとなる幸徳秋水(こうとくしゅうすい)など、時代を動かす優秀な人材が育っていきました。
📰

『東洋自由新聞』と西園寺公望

1881年、自由民権を主張する『東洋自由新聞』を創刊!なんと社長にはフランス留学時代の親友で公家の西園寺公望(のちの総理大臣)を迎えました。しかし、急進的な内容を恐れた政府からの強烈な圧力により、西園寺は辞任に追い込まれてしまいます。
🚫

危険人物!「保安条例」による追放

政府への痛烈な批判を続けたため、1887年に政府が制定した反体制派を弾圧する法律「保安条例」によって、危険人物とみなされて東京からの退去を命じられてしまいます。しかし彼は屈することなく、大阪へ移ってジャーナリスト活動を続けました。
🗳️

第1回衆議院議員総選挙で当選!

1890年、ついに日本初の国政選挙(第1回衆議院議員総選挙)が実施されると、大阪から出馬して見事当選を果たします!民衆の期待を一身に背負い、帝国議会の場で自由と権利のために戦うはずでした。
😡

怒りの辞職と「無血の虫」発言

しかし、議会では政府と野党(自由党)が裏で妥協し、予算案が通ってしまいます。信念を曲げる政治の腐敗に激怒した兆民は、「こんな議員どもは血の通っていない無血の虫だ!」と言い放ち、あっさりと自ら議員を辞職してしまいました!
💼

借金だらけ?実業家への挑戦

政治家を辞めた後は「これからは経済の時代だ!」と実業家に転身します。北海道での山林事業や鉄道事業など様々なビジネスに手を出しますが、お人好しな性格もあってことごとく失敗。多額の借金を背負う苦労人な一面もありました。
🖋️

余命1年半!魂のラストメッセージ

1901年、54歳の時に喉頭がんで「余命1年半」と宣告されます。しかし彼は全く動じず、声を失いながらも死の直前までペンを握り続け、遺著となる『一年有半』と『続一年有半』を執筆!ベストセラーとなり、最後まで反骨精神を貫いてこの世を去りました。
スポンサーリンク
スポンサーリンク