1363年頃、大和猿楽「結崎座」を率いる観阿弥の長男として生まれました。幼名は鬼夜叉(おにやしゃ)。幼い頃から父の厳しい指導を受けて役者としての英才教育を施され、その類まれなる美貌と舞の才能は、早くから人々の評判を呼んでいました。
1374年、12歳の世阿弥(当時は藤若)は、京都の今熊野神社で行われた演能会で父と共に舞台に立ちます。この時、若き第3代将軍・足利義満が彼のあまりの美しさと天才的な舞に一目惚れ!ここから世阿弥の運命は劇的に変わっていくことになります。
将軍の寵愛を受けたことで、身分の低かった猿楽師でありながら、最高クラスの貴族たちとの交流が許されました。特に連歌の天才・二条良基から和歌や古典文学の深い教養を直接叩き込まれ、これが世阿弥の作品に気高い知性と美しさをもたらしました。
1384年、22歳の時に絶対的な存在であった父・観阿弥が急死します。若くして観世座の座長(太夫)を引き継いだ世阿弥は、父が築き上げたリズミカルで華やかな芸風に、自らが学んだ貴族的な優美さを融合させ、独自の芸術を模索し始めました。
父の教えと自身の経験を体系化し、能の修行法や美学をまとめた秘伝の書『風姿花伝(ふうしかでん)』を執筆します。「花(観客を魅了する新鮮な魅力)」をいかに咲かせ、保ち続けるかを論じたこの書は、日本最古にして最高の演劇理論書として世界的にも高く評価されています。
彼の著書には、現代人の心にも突き刺さる名言が数多く残されています。未熟だった頃の悔しさを忘れるなという「初心忘るべからず」や、すべてを見せずに隠すからこそ美しさや感動が生まれるという「秘すれば花」など、その深い洞察力は芸術の枠を超えた人生哲学です。
世阿弥の最大の功績の一つが「夢幻能」の確立です。旅の僧の夢の中に、歴史上の武将や美女の幽霊が現れ、生前の悲恋や激戦の記憶を舞いながら語って消えていくという、この世とあの世が交錯する幻想的で美しい劇形式を生み出しました。
1408年に足利義満が亡くなると、状況は一変します。第4代将軍・義持は田楽(別の芸能)の役者である増阿弥をひいきにしたため、世阿弥は冷遇されるようになります。しかし、この逆境の時代にこそ、世阿弥は自己の芸術をさらに深く静かに内省し、芸を極めていきました。
さらに「万人恐怖」と呼ばれた第6代将軍・足利義教の時代になると、義教は世阿弥の甥である音阿弥(おんあみ)を異常に寵愛し、世阿弥やその息子・元雅を徹底的に弾圧します。そして1434年、世阿弥はなんと72歳という高齢で佐渡島へと流罪(配流)にされてしまいました。
過酷な佐渡での流人生活の中でも、世阿弥は決して絶望せず『金島書(きんとうしょ)』という小謡集を書き残し、芸への執念を燃やし続けました。その後、京都に戻れたかどうかの正確な記録はありませんが、81歳頃に亡くなったとされています。権力に翻弄されながらも、彼が築き上げた「能」の精神は、600年後の現在も色褪せることなく燦然と輝いています。