1878年、大阪・堺の有名な和菓子屋「駿河屋」の三女として生まれます。店番をしながら、父の蔵書であった『源氏物語』などの古典文学や近代小説を読み漁り、豊かな感受性と文学への抑えきれない情熱を心の中で静かに育んでいきました。
22歳の時、雑誌『明星』を主宰するカリスマ歌人・与謝野鉄幹と出会い、激しい恋に落ちます。当時、鉄幹には妻がいましたが、晶子はすべてを投げ打って家を出て単身上京!自らの情熱の赴くままに略奪愛(結婚)を成し遂げました。
1901年、女性の官能美や自我を赤裸々に詠み込んだ第一歌集『みだれ髪』を発表。「やわ肌のあつき血汐にふれも見で…」という大胆な短歌は、「なんとふしだらな!」と世間から大バッシングを受けつつも、新しい時代を求める若者たちからは熱狂的に支持されました!
日露戦争が激化する中、戦地に赴いた弟を思って雑誌『明星』に『君死にたまふことなかれ』を発表します。「天皇は自ら戦場へは行かないのに!」という過激な反戦の思いを詠み、国家のために死ぬのが当然とされた時代に、大町桂月らと激しい大論争を繰り広げました。
鉄幹との間に、なんと11人もの子供(出産は13回)を授かり育て上げました!しかし、鉄幹の詩が時代遅れになって売れなくなると、晶子が一家の家計を支えるため、身重の体で休む間もなく原稿を書きまくるという、超パワフルなワーキングマザーとして奮闘しました。
スランプに陥り、逃げるようにパリへ旅立った夫・鉄幹。しかし晶子は「彼が心配!」と、自らも資金をかき集めて単身でシベリア鉄道に乗り込みヨーロッパへ追跡します!このパリ滞在で世界の最先端の文化や女性の自立した生き方に触れ、視野を大きく広げました。
帰国後、平塚らいてう等と激しい「母性保護論争」を展開。「妊娠や出産は国に保護されるべき」と主張すらいてうに対し、晶子は「国に依存するのではなく、女性自身が経済的に完全に自立すべきだ!」という徹底した自立論をぶつけ、女性解放運動を牽引しました。
「国に押し付けられた画一的な教育ではなく、自由で個性的な人間を育てたい」という強い思いから、1921年に西村伊作らと共に「文化学院」を創設。自らも教壇に立ち、当時としては画期的な男女平等のリベラルな教育を実践しました。
古典への造詣が深かった晶子は、紫式部の『源氏物語』を現代語訳する大仕事に生涯をかけて取り組みます。関東大震災で一度は全原稿が灰になるという悲劇に見舞われますが、不屈の執念で一から書き直し、見事全巻の翻訳(新訳源氏物語)を完成させました!
1942年、63歳でこの世を去ります。恋愛、出産、反戦、女性解放、教育、古典研究と、何事にも全力で命を燃やし尽くしました。社会の常識に縛られず、自分の心に一切の嘘をつかずに生き抜いた、日本近代文学史上最もエネルギッシュで情熱的な女性の生き様でした。