「越後の龍」や「軍神」と称された、戦国時代最強の呼び声高い不敗の名将です。私利私欲のためではなく、「義」のために戦うという信念を持ち、生涯で70回以上の合戦を経験しながらほとんど敗北しなかったという圧倒的な強さを誇りました。宿敵・武田信玄との激闘である川中島の戦いや、「敵に塩を送る」という美談、そして晩年には手取川の戦いで織田信長の軍勢をボコボコに撃破したことでも知られています。戦いと仏教を深く愛した、カリスマ的な名将のストーリーを見ていきましょう!
1530年、越後国(新潟県)の守護代である長尾為景の四男として誕生します。幼名は虎千代と名付けられました。幼い頃は城下にある林泉寺という寺院に預けられ、厳しい修行の中で仏教の深い教えを学びながら少年期を過ごしました。この時に培われた信仰心が、後の「義」を重んじる精神の土台となります。
1543年、越後国内で大きな反乱が起きます。当時わずか15歳(数え年)だった彼(景虎)は、栃尾城(とちおじょう)に入って見事な指揮を執り、押し寄せる敵軍をあっさりと撃退してしまいました!戦場に出た初陣からすでに、戦術の天才としての恐るべき才能の片鱗を見せつけていたのです。
お兄さんの晴景は病弱で、国をまとめる力がありませんでした。そのため、守護大名や地元の武士(国人)たちから「景虎様こそトップにふさわしい!」と強い推挙を受け、長尾家の家督を継承することになります。圧倒的なリーダーシップとカリスマ性で、バラバラだった越後国を瞬く間に平定(統一)してしまいました。
隣国の武田信玄が信濃国(長野県)へ侵略を始めると、領地を奪われた豪族たちが「どうか助けてください!」と越後へ逃げ込んできました。謙信は「助けを求める者を救うのが『義』である!」と出兵を決意します。ここから、両雄が激突する宿命の抗争「川中島の戦い」が、なんと12年間にわたって繰り広げられることになります。
北条氏康に国を追われた関東管領(かんとうかんれい=関東のトップ)の上杉憲政を保護したことで、1561年に鎌倉の鶴岡八幡宮にて「関東管領」の職と上杉の姓を正式に継承します。この時に名前を「上杉政虎(のち輝虎)」と改めました。「謙信」と名乗るのは後に出家してからのことです。
1561年、計5回ある川中島の戦いの中で最大の激戦となった「第四次(八幡原)の戦い」。この時、謙信は自ら白頭巾を被り、単騎で武田軍の本陣へと猛突撃しました!床几に座る武田信玄に対して愛刀で三度斬りかかり、信玄がそれを軍配(団扇)で間一髪防いだという、戦国時代最高にドラマチックな「一騎打ち伝説」を残しました。
今川氏と北条氏が、海のない武田領への塩の輸出をストップする「塩止め」を行いました。これを聞いた謙信は「戦いは正々堂々と兵を以てすべし。関係のない民衆を苦しめるのは卑劣である!」と怒り、なんと敵である武田領へ越後から大量の塩を送り届けさせました。これが、現代でも使われることわざ「敵に塩を送る」の語源となった美談です。
かつて謙信は、上洛して将軍に挨拶するなど室町幕府をとても大切にしていました。しかし1573年、織田信長が将軍・足利義昭を京都から追放して幕府を滅ぼしてしまいます!信長の傲慢で身勝手な態度に激怒した謙信は、これまでの友好関係を完全に断ち切り、反信長の「信長包囲網」へと加わりました。
1577年、加賀国(石川県)の手取川(てどりがわ)にて、柴田勝家が率いる織田信長軍の先鋒部隊と激突します(手取川の戦い)。謙信は得意の夜戦と大雨で増水した川を見事に利用し、凄まじい奇襲攻撃で織田の大軍勢をパニックに陥れ、跡形もなく大敗させました。「軍神」の恐るべき強さを天下に知らしめたのです。
織田軍をボコボコにした後、「次はいよいよ信長本人を討つ!」と、関東・畿内への大遠征を準備していました。しかしそのさなかの1578年3月、春日山城の厠(トイレ)で突然倒れ、脳卒中のため49歳という若さで帰らぬ人となってしまいました。もし彼がもう少し長生きしていれば、織田信長の天下は幻に終わっていたかもしれないと言われています。