1564年、イングランドのケント州で誕生。12歳で造船親方の弟子となり、12年間にわたって造船術、天文学、航海術を徹底的に叩き込まれました。その後は海軍に入り、あのスペインの「無敵艦隊(アルマダ)」を打ち破った歴史的な海戦にも補給船の船長として参加しています。
1598年、極東を目指すオランダの船隊(5隻)に航海長として参加します。しかし、マゼラン海峡を抜ける過酷な航海で、嵐、飢え、壊血病、敵国からの襲撃などにより船は次々と遭難・脱落。最終的に生き残ったのは、彼が乗る「リーフデ号」たった1隻のみでした。
1600年4月(関ヶ原の戦いのわずか半年前)、ボロボロになったリーフデ号は豊後国(大分県)に漂着しました。出航時に110人ほどいた乗組員は20数名にまで激減しており、しかも自力で歩ける者はアダムズを含めて数名しかいないという、まさに絶望的な状況でした。
日本に先に来ていたポルトガル人の宣教師たちは、新教国である彼らを敵視し「こいつらは海賊だから処刑すべきだ!」と強く主張します。アダムズは拘束され、大坂城で天下人・徳川家康から直接厳しい尋問を受けることになりました。
処刑を覚悟したアダムズでしたが、世界の情勢、地理、航海術、数学などを理路整然と説明する彼の知性と誠実さに、家康はすっかり魅了されてしまいます!処刑どころか誤解を解くことに成功し、以降、家康から寵愛を受けるようになりました。
家康からの命を受け、伊豆国の伊東(静岡県)で自身の造船技術をフル活用して西洋式帆船(80トンと120トン)を建造しました!この船は後に太平洋を横断するほどの大成功を収め、アダムズの評価は幕府内でさらにうなぎ上りとなります。
造船などの多大な功績により、なんと相模国三浦郡(神奈川県横須賀市)に250石の領地を与えられ、幕府の直参旗本に取り立てられます。領地の「三浦」と、水先案内人を意味する「按針」から、「三浦按針」と名乗り、帯刀を許された初の西洋人武士が誕生しました!
家康の厚い信任を背景に、オランダやイギリスの東インド会社が平戸(長崎県)に商館を設立するのを強力にサポートしました。当時の幕府の外交・貿易政策において欠かせないキーマンとして、諸外国と日本の架け橋となりました。
イギリスに妻子を残していたため、何度も帰国を懇願しましたが、「お前を手放すわけにはいかない」と家康から拒否され続けました。結局、帰国を諦めた彼は日本人女性(お雪とされる)と結婚し、日本で新しい家族と共に生きていく覚悟を決めます。
最大の理解者であった家康が亡くなると、第2代将軍・秀忠の時代には幕府の対外政策が変わり、彼の出番も次第に減っていきました。1620年、平戸で55歳の波乱に満ちた生涯を閉じますが、彼が繋いだ海を越えたロマンは、今でも日英両国の絆として語り継がれています。