1239年、伊予国(愛媛県)の有力な武士・河野氏の家に生まれました。しかし、承久の乱で一族が没落していたこともあり、わずか10歳で出家。その後、九州の大宰府で浄土宗の僧・聖達(しょうたつ)に弟子入りし、「智真(ちしん)」と名乗って仏道修行に励みました。
父の死をキッカケに一度は実家へ戻り、還俗(僧侶を辞めて俗人に戻ること)して妻帯もしました。しかし、一族内での所領争いなどで骨肉の争いを目の当たりにし、「この世の執着は苦しみを生むだけだ」と深く悟り、再び出家して厳しい修行の旅へ出ます。
1274年、熊野本宮大社(和歌山県)に参籠した際、夢に神様(熊野権現)が現れました。「相手が信じようが信じまいが、心が清らかであろうがなかろうが関係ない。ただ念仏の札を配りなさい!」という劇的な啓示を受け、彼の独自の教えが決定づけられました。
熊野での啓示を受けた彼は、自らの名前を「一遍」と改めます。そして、家、財産、家族、地位、さらには「自分が救われたい」という執着すらもすべて捨て去る「捨聖(すてひじり)」となり、生涯をかけた遊行(ゆぎょう:旅の布教)を本格的にスタートさせました。
彼の布教スタイルは「賦算(ふさん)」と呼ばれるものでした。「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」と書かれたお札を、出会う人々にひたすら手渡していくのです。「これを受け取れば誰でも極楽浄土へ行ける!」というシンプルで力強い教えは、民衆の心を瞬く間に捉えました。
長野県の佐久地方に立ち寄った際、念仏を唱えながら踊り出す「踊念仏(おどりねんぶつ)」を始めました!鉦(かね)や太鼓のリズムに合わせてトランス状態で踊り狂うこのパフォーマンスは、虐げられていた庶民のエネルギーを爆発させ、全国的な大ブームを巻き起こしました。
彼と弟子たち(時衆)の集団は、まるで熱狂的なフェス集団のようになっていました。1282年、武士の都である鎌倉に入ろうとしましたが、そのあまりの民衆の熱狂ぶりと異常な影響力を危険視した鎌倉幕府(執権・北条貞時)によって、強引に追い返されてしまいます。
鎌倉を追い返されても全く気にせず、京都や地方の寺社、さらにはハンセン病患者などの社会的弱者のもとへも分け隔てなく足を運びました。生涯で特定の寺や拠点を持たず、文字通り日本中を歩き続けたため「遊行上人(ゆぎょうしょうにん)」と尊称されました。
1289年、兵庫の観音堂(現在の真光寺)で死期を悟った一遍は、驚くべき行動に出ます。「私の一代の教えは、南無阿弥陀仏の念仏に尽きる」と言い残し、自らの著作や手紙をすべて火にくべて焼き捨ててしまったのです!どこまでも物や名声に執着しない、徹底した生き様でした。
51歳でこの世を去った後、彼のドラマチックな旅の記録は、弟子の聖戒と絵師の円伊によって『一遍聖絵(いっぺんひじりえ)』(国宝)という絵巻物にまとめられました。彼の残した教えと熱狂は「時宗(じしゅう)」として、その後の日本仏教に深く根付いていくことになります。